★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (8)

管制塔の上の状態は、占拠している者たちにも、まだ把握できておりませんでした。
前田が『1978・3・26 NARITA』で中で述べていることは、たぶんその後の裁判の中で明らかになったことではないかと、思います。
8ゲート組の座談会の中で、彼はこう言っています。

前田●時系列的に整理すると、僕たちが管制塔に上がる前に、みなさんと対峙した機動隊が逆側に登場した。僕たちはなかに入ったが、管制塔の14階まで来ると電子ロックでドアが開かない。そこでベランダに出た。そのとき、機動隊が逆側から登ってきたが、「誰もいない」ということで降りてしまった。そして、太田君が管制室のガラスを割ったので、なかに入って器具を壊しはじめた。われわれが突入したとき、警備本部は混乱の極みとなっていたが、直後に吉鶴君たちのトラックが突っこんできて、警備本部は「今度は自分たちが襲われる」と感じて混乱に拍車がかかった。(『1978・3・26 NARITA』より)

例の反対側のベランダに機動隊員は一度、上がってきていたのでしょう。
で、8ゲート部隊が空港の中にしずしずと、隊列を進めてきて、管制塔部隊に思い切り手を振って激励しているさなかに、太田がパラボラアンテナを足場にして、管制室の外にめぐらしてあるキャットウォークに登攀したのでありました。

彼は、管制室の中央に脚立を立て、それに乗っているネクタイ姿の男性を見たと言います。屋上へ退避しようとする最後の一人だったのでしょう。
太田と目を合わせた直後に、上へと姿を消し、脚立も引き上げてしまいます。

人がいた。いるのかよ。でも、いた。管制官が。
開港前の日曜日にも、お仕事をされていた。
世間がお休みのときに仕事をしてはいけません。まして、その休みの日が闘争の日になっているときには、三里塚みたいなところで働いてはいけません!

怖い思いをさせて誠に申し訳ありませんでしたが、屋上に退避していただいて、ありがたいことでした。
管制塔占拠部隊は「人質をとるな」という規律が課せられていましたから、何とか彼らを安全に退避させようとしたでしょうが、あのまま管制室にいられたら、あとあと難問が持ち上がっていたかもしれません。

太田は、キャットウォークに立ち上がり、バールで外側のガラスを割りにかかります。
片手で管制塔の外枠の手がかりを握り締め、片手でバールをぶつけます。
ところが、意外にガラスは弾力があり、ブヨヨヨ〜ンとバールを跳ね返したといいます。
ここからが凄い。

彼は跳ね返す弾性が弱い端のほう、つまり枠のすぐ近くを狙って、両手でバールを突き入れていったのです。ガラスに食い込む感触がありました。跳ね返す力が弱いと確認した彼は「ここが狙い目」と思ったといいます。
やがてまた、片手を手がかりに掛け、身体を外に反らしては、バールを小さな穴めがけて打ち付けていきました。キャットウォークの隙間からは60m下の管理等正面玄関あたりの地上が見えていました。

穴を広げた太田は、のそっと下の前田に声をかけます。
「あのぅ、ここから入れますよ」

remol
1978.3.26管制塔占拠 | comments(2) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (9)

都内某所のビルのベランダで、頭上の壁を見上げていると、管制塔のベランダを思い出したりするものです。
前田は裁判で「管制室への道を見つけた太田君が大殊勲」と証言しました。
不思議なもので、管制塔部隊は、ろくな打合せもしていないのに、それぞれの現場でそれぞれのやるべきことを選び取り、実にうまく役割を果たしていきました。

太田に「ここから上れますよ」と、のそりと声をかけられた前田は、えらい勢いでパラボラアンテナに取り付き、登り始めました。
前田は、太田が開けた管制室外側のガラスの穴を確かめるや、14階ベランダの中路に声を「ハンマーを渡してくれ」と言います。

このとき、ハンマーを持っていたのは児島と中路の二人です。児島は千葉で前田とともに活動してきて、前田にくっついて「どこまでも参ります」が任務でありますから、言われなくても、高く高く登るのであります。

中路はハンマーを前田に渡して、自分も上へ登ろうとします。前田は冷酷であります。
頭を踏んづけて(比喩だよ、比喩)「下を守れ!」と厳命したのでありました。
上へ行くべき人間は、正しく管制室へ行きました。
つまり、前田、太刀持ち児島、プロ青のリーダー太田、戦旗代表水野、です。たぶんあとの二人、インターの藤田、プロ青の中川は、行かなくてもよかったはずの面子でした。

中路は、今度は上へ行こうとする小泉の足を引っ張り、中路と小泉は、またまた上へ行こうとする平田を阻止します。
前田から中路・小泉・平田と波頭のたったインターの部隊では、あの「玉突き革命論」と揶揄されもした、ベトナム・沖縄・朝鮮・日本・中国へと革命を全力で頑張らねばという「極東解放革命」の力学を忠実に具現化した時代遅れの優等生であったのです。
実際、いいかげんな中川のおっさんなどは、そういうありさまを尻目に、さっさと管制室へ入り込み、報道ヘリに向かってVサインなど掲げていたのでありました。

管制室の機器は10分もせぬうちに、全壊いたしました。当たるを幸い、お祭りだ、ハツリだ・わっしょい、ドンガララ! 
代わりばんこにハンマーを持ち合っては、ドカンドカンと瞬く間に壊してしまったのでありました。
反対派農民の怨嗟の象徴であった管制塔の中枢にして、開港の要であった飛行場管制の機能は、あっけなく壊滅したのです。

この管制室へ向かって登攀していく赤ヘルのメンバーと、窓から春風に乗って舞い散っていく書類の帯を下から眺めた8ゲート部隊は、もうたまらん状態に陥っていくのでありました。

remol



1978.3.26管制塔占拠 | comments(0) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (10)

 8ゲートを手前にして、わが赤ヘル歩兵部隊は、のた打ち回っておりました。
わけの分かっているやつと、わけもわからず騒ぐ奴。
行くか、行かぬか、決断のときです。

管制塔部隊は実はもうのんびりしかかっていたのです。
やることやっているし、上から見ている赤ヘル部隊は、まぁ、かっこいい。
でも、なんだか、動きが変。
立ち止まり、ちと進み、伸び縮み……

♪来るの、来ないの、どうするの
 早く精神、決めなさい
 決めたら、ビンもって、進みなさぁい

失礼、この歌はけしからん歌だと、批判する向きもおありでしょうが、上から見たとき、気分的にはそういう感じなんだよね。
でもね、本音を言うと、「来なくていい!」でした。わざわざ、逮捕者を出しに来ることはない、というのが、おそらく上にいた連中の多数の気持ちだったでしょう。
でも、そうはいかんのですよね。勢いがついたときというのは。
まして、今日は突撃、空港の中に踊りこんで、逮捕覚悟で徹底的に闘う、というカタァい決意をしてきている部隊だもの。

『1978・3・26 NARITA』から、8ゲートの人々の様子を引用します。

高橋●8ゲートへの進軍中、最初に見えたのは何だったかなぁ?
佐々木●9ゲートから突入した車が燃えた煙だよ。
大森●東峰で燃やした車の煙も見えていた。
大門●警察の阻止線が全部、壊れてしまった。警察同士の連絡もつかない状況に陥っていた。だから闘争本部にいた私たちは、8ゲートまで行けるだろうということは、わかっていた。問題は、8ゲートについたらどうするか。その悩みが大きかったわけです(笑)。吉鶴君のように、昨夜、マンホールに入れなかったような連中がいる。大館君には「管制塔が占拠できたから撤収せよ」と指令するのだけど、「吉鶴たちが引かないといっている」という連絡が入る。
 
大館●機動隊とぶつかる前に、管制塔に赤旗が翻っているのが見える状況のなかです。
大森●管制塔に向って「やったー! よくやったぞー!」って、みんなが手をふっていた。
吉鶴●僕は管制塔部隊の作戦内容を知っていたから、「ああ、成功したんだ!」って、すぐにわかったけど、8ゲート部隊の圧倒的多数は、なぜ管制塔に赤旗が翻っているのかがわからない。僕は失敗したメンバーとして、手をふりながら管制塔のちかくまで行こうとしたわけ。
 
大森●僕なんか、「先を越された」と、警察よりもショックを受けたりしてね(笑)。
大門●8ゲートまで行くしかないと思ったのは、われわれのスローガンが「包囲、突入、占拠」だったからです。8ゲートは占拠部隊ではないにしても、突入部隊だと本人たちは自覚していた。そして、さまざまな訓練を積んできた最精鋭だという自負もある。インターの場合、300人と数は多いが、2年間にわたって毎週、機動隊とぶつかってきた部隊だった。

佐々木●この300名は基本的に中隊、小隊として編成されていた。1小隊が10人程度で、5小隊で中隊となる。実際の戦闘ではあまり役に立たなかったけれども、一応はそのように編成されていたわけです。実戦では、小隊長が「突っこめ」という前に突っこんでしまったり、小隊長が1人で突っこんでいったり、バラバラですけどね(笑)。しかし、そのように編成されているのは、全員がコマンドとして自覚しているからです。

大館●希一さんか私だったのかは忘れたけど、プロ青、戦旗派の諸君といっしょにその場でアジったわけです。「管制塔に突入したのはわれわれの部隊である。今後も闘争が続くのだから、機動隊と白兵戦にならなくても、この場から引き返せ」と。本部からの指令で、そのようなアジテーションをしたと思うんです。それが、あとから、ものすごい批判をあびることになった(笑)。

佐々木●トラックの荷台のうしろに立って、そのアジテーションをしたのは僕なんだよ。部隊は、これからどうしたらいいかわからなくて、茫然自失状態。行く気満々の連中だから、「帰るぞ」と言ったって聞く耳を持つはずがない。そこで、言葉を選んで「帰る」とは言わずに、方針提起をした。そうしたら僕のうしろで大館が「行くんだね、行っていいんだね」と無線連絡をしている。
                                        (『1978・3・26 NARITA』より)




あははは……。指揮者はつらいね。

remol
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (11)

 8ゲートの部隊の兵隊さんたちが「突入だぁ」と指揮者を突き上げていた頃、管制塔の「はつりだワッショイ」は、もう決着していました。。

もちろん、管制室(飛行場管制業務)と、14階マイクロ通信室(洋上管制通信業務)を破壊し尽くしたのですから、実際的なダメージは巨大なものでした。
ドカン、ドカン、とハンマーをふるっている最中に、管制室には電話がかかってきたのです。
受話器を取った水野の耳には「そこには大事な機械があるのです。壊すのをやめてください」と、いう涙でつまる声が残っています。

「ごめんね」とは思うけれど、こっちも大事なお仕事さ。
現地の農民に宿ってきた激しい抵抗の心、いま、電話の主が流すらしい涙よりずっと人間的な涙、苦しい胸の内を知る努力をして、少しでも大事にしてきたら、こんなことにはならなかっただろうに。
もう、遅いのよ。

水野は「ただいま、占拠中!」と怒鳴って、受話器をたたきつけます。

もし、より重要な機器がある場所を特定されていたのなら、そこへまた、無理をしてでも向かったかもしれません。
実際は、占拠部隊はそれを知りませんでした。計画を立てたものたちも、そこまでは、調べ尽くしていなかったようです。
けれど、より開港阻止が廃港へと直結する、空港の息の根を止める可能性があったかもしれない重要な機器は、管制塔の下の管理棟の最上階(だったと思う)にあったようで、そこへのアタックは試みられませんでした。

管制塔に突入した戦力で、その作戦遂行ができたかどうかは、難しいところです。
前田なんぞは調子いいですから、「ホースで水をぶっかけ回せばよかったんだ」なんてことを、あとで言っておりましたが。

しかし、それでも思うのは、仮にその場所を知り、そこへ戦力を集中してうまくいったとしても、あの一番高い管制室を占拠するより、空港反対闘争をアピールする闘いにはならなかったのではないかということです。

やはり、あの高いところで、サングラスの中川が月光仮面のように突っ立って、Vサインしているところが絵になり、ガラスの向こうで大ハンマーが機器に打ち下ろされるシルエットが浮かび、そこから喚起されてくるイメージこそが、私は大切だったと思うのであります。

管制塔上のこの光景は、むろん、8ゲート部隊の「やる気」に火をつけずにおくものか。


大森●「行く」と決めるまで、5分ぐらいかかって、すでに3分の2くらいは引きはじめていたときだった。先鋒隊は「今日はパクられる」という覚悟をしていたから、「引くのかよー」と野次を飛ばしたわけ。ここまではわれわれの行動指導部がついていたから、「野次るな」と止められた。

大館●インターの内部からは、吉鶴君など管制塔に入れなかった人たち、それから小隊長、中隊長を含めて、「大館よ、ここまで来て、なんで帰るんだ!」と言いつづける。私は私で、「これまで訓練を続けてきた2年間が、このままでは吹っ飛んでしまう」と感じて、本部に「行かせてくれ。このままでは現場がもたない」と連絡した。結論が出るまで5分間ぐらいかかったと思いますよ。その間ずうっと、希一さんがアジっていた。

大門●そのとき、私はもちろん「行くな」という指示を出していたのだけれど、「誰が行きたいと言っているのか」と大館君に聞いたら、「吉鶴たちだ」と言う。「車で突入する」という連中もいた。「最後は、収まらないから行かせるしかないか」と悩んでいたら、本部の誰かが「行くと全滅するぞ」と言ったが、「どこかで引かせるから」とゴーサインを出した。
大館●突っこんでいいという指令が出たときは、本当にうれしかった。自分たちは部隊を預かっているので、突っこまなかったら、どうなるのだろうと感じていたから……。

佐々木●「これで、プレッシャーから解放された」という感覚は非常に強かった。ただし、それまで撤収のアジテーションしていた僕は大変だったけど(笑)。「管制塔に突入した同志を迎えに行くぞー!」って、突然、アジの調子を変えたわけだから。
吉鶴●「本部から突入の指令が出た!」と誰かが言ったのを覚えてる。
佐々木●トラック周辺に詰め寄っている連中が、大声で「オー!」って、叫んだからね。

高橋●でも、決断までの5分間というのは、けっこう長く感じたなぁ。もう赤旗が揚がっているので、本部に「どうするか」と聞こうとしたが、無線機の周波数がなかなか合わない。「管制塔が見えた。もう目的は達成した」とアジテーションをしているのに、中隊長の中には、そのような意志統一をしていない人もいて、「同志諸君、管制塔にはすでに突入した同志がいる。われわれが行かなくて、どうするのか」とアジっている(笑)。そうこうしているうちに、行くことになった。

本人たちはコマンドのつもりだが、部隊の性格は大衆部隊で、とにかく機動隊とぶつかるという気持ちが強い。だから、隊長までは全体の陣形を心得ているが、それ以外の部分は前夜も当日の朝も、「武器がなくなるまで撤退しない。われわれが撤退するのは武器を全部使い切ったときだ」と、口々に決意表明しているわけです。電気銃だとか、新兵器もいろいろ準備していたので、「まだ何も使っていないじゃないか」ということになる。

佐々木●部隊が撤収する際に捨てた火炎瓶のケースを、「忘れ物だ、もったいない」と思った女性2人が、再び担いで前線に運ぼうとしたという話もある。彼女たちは、そのケースを担いだまま、機動隊に逮捕された。それくらい「武器がなくなるまで撤退しない」という思いは強かったね。
                               (『1978・3・26 NARITA』より)

変な話だけど、8ゲートの連中の様子を聞くと、笑いながらも涙がにじんでくるような気分になるのであります。

remol




1978.3.26管制塔占拠 | comments(0) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (12)

昨日は、私の職場のご近所にある某派の事務所にお招きに預かり、御党首をはじめに、なかなかにりっぱな労働者のメンバーたちと、まじめな話から夢語りまで、こってりしてきました。有意義な時間でした。

私がかつて属した党派ではありませんから、モノの見方や感覚の違いやらは、当然、あります。
けれども、「今の世の中、情勢をどうみるのか」「いま何が必要なのか」と、いったことは、ずいぶん、問題意識が重なりあっていたことに、少し驚きました。
彼らも、試行錯誤。
むろん、私も、あれからこのかた、ん十年も試行錯誤やら寝たままやら、トンチンカンやら。

「総括」なんておこがましいことは、できる力も私にはないのでありますが、やはり、考えてみることは続けています。
互いに、いまの「混迷」「混乱」「試行」を率直に語れる仲になれることが、やはり大事だなと、思ったのでありました。
「自分たち(だけ)が正しい」と言ってすまされない状況になったこと、主体がボロボロの少数になったことを、むしろ私は、ありがたいと思います。
ようやく、いろんな考えの人が寄り集まって、協同する必要が出てきたこの事態こそ、よろこぶべきなのではありますまいか。
管制塔占拠闘争を振り返るのも、そんな脈絡の上にあればいい。そう勝手に思っております。

かの派の人々も、3・26に参加しておりました。けれど、実力闘争から少し身を引いて、逮捕者を出さぬという方針だったそうです。
でも、そんなことを言ったところで、現場で血湧き肉躍れば、当然、そうはいかんもんです。
菱田小学校から出陣して、周辺でデモという方針でも、頭かっときた労働者を、数人、逮捕されてしまったのだそうです。

「ああいうときって、中途半端な方針がかえって被害を大きくするんですよねぇ」とわたくし。
「んだんだ」と、御党首。
昔なら、「ほらほら、日和見主義者のお嘆きね」と、言いかねないところなのですが、すこ〜し大人になってしまったわたくしは、なにやら同情のような共感のような妙な心持ちなのでありました。

空港内に突入した本隊、8ゲート部隊は、争乱型肉弾戦の最中において、逮捕者は意外に少なかったようです。
「突入させたら全滅するぞ」と、いう司令部内の声は、実は正しくなかったのでした。



*牧歌的な光景*

大森●「行く!」と決めて進んでいくと、左横にプレハブの機動隊宿舎が何棟も見えてきた。勤務を終えた機動隊が宿舎で休息してるわけだけど、彼らは下着のまま出てきて、楯を構えていた(笑)。
佐々木●宿舎と道路の間には鉄条網があって、真上を飛んでるヘリコプターからは「マル暴接近、マル暴接近、起きろ」というアナウンスが流れていた。マル暴とは突入部隊のこと。そのアナウンスを聞いて宿舎から機動隊員が続々と出てきた。彼らはズボンだけはいて、上は下着のまま。その格好で楯だけもって飛び出してきた。
吉鶴●僕たちは、そのまま通り過ぎたよね。

大森●機動隊は催涙弾を撃つわけでもなく、ただただ慌てているだけ。8ゲートに向う途中には鉄条網のバリケードがあった。8ミリフィルムの映画『大義の春』では、格好よくペンチで切断されているように映っているけど、そんなに簡単ではなかった。
佐々木●切断して突入路を作るわけだが、簡単にはいかない。そこでラッセル車でゲートごと踏みつぶしたら、それが成功した。それ以降のバリケードはすべて、この方式で突破していった。
 大森●もうすこし行くと完全装備の機動隊がいたでしょ。

佐々木●場所は空港内の駐車場で、部隊は神奈川県警の機動隊だった。
大森●ゲート突入寸前の牧歌的な記念写真があったよね。ラッセル車を中心にして、部隊が勢ぞろいしている写真。
高橋●あの写真は、すでに8ゲートのなか、入ってすぐの場所です。
大森●あの場面では、空港清掃員のおばちゃんたちが5〜6人、竹箒を持って、われわれの前を通り過ぎた(笑)。空港では煙が上がっているし、われわれは異様な格好をしているのに、別に驚いた様子も見せなかったおばちゃんたちを、今でも不思議な光景として覚えているね。その後、神奈川県警の姿が見えたので、届かなかったけれども、僕が火炎瓶を1本、投げさせてもらった。

高橋●駐車場脇にいた機動隊の大部隊は、けっきょく動かなかったね。
大森●あれは警察の統制がとれなくなっていただけではなくて、「ここを守っていればいい」という保身からだったのかな。
佐々木●あの部隊は、神奈川県警の方面機動隊で、普段訓練を積んでいる部隊ではなかった。

前田●管制塔の裁判過程でわかったことだけど、9ゲートから突入されて混乱した警察も、いったんは混乱も収まった。ところが今度は管制塔のなかにわれわれが突入してしまった。その結果、三井警備本部長をはじめとする警察幹部は、警備本部から逃げ出した。そのため警備本部には誰もいなくなって、警備部隊が指示を仰いでも対応する責任者がいなかったわけです。そうすると、警察の各部隊は自分で判断するしかない。しかし、警察は自分で判断する訓練をしていないから、動きようがなかった。僕たちは管制塔の上から見ていて、機動隊の大部隊が3つ、固まって存在しているのに、何で動かないのか不思議でならなかった。

大門●警備本部が崩壊して、もう横の連絡もできなくて、指令も出ない。その結果、われわれの方も警察の動きを読めなくなった。8ゲート部隊に「突っこめ」と指示を出したのも、警察無線によって機動隊がわれわれの部隊を阻止できないと判断できたからだ。ところがそれ以降、警察側はなんの指令も出さない。だから私たちも情報を得られなくなってしまった。


*偶然の連鎖*

大門●警察は当初、8ゲート部隊は横堀要塞に向うと考えていた。2月要塞戦の経験で、反対同盟が要塞に籠城しているのはわかっていたから、支援部隊はそこに向うだろう、と。だから阻止線は、その方面に集中していたし、機動隊の精鋭もそこに集まっていた。それが彼らの間違いのはじまりだったわけです。
佐々木●2月の要塞戦があったから、そのような錯覚を作り出すことができたんだよ。

大森●前日の25日から、要塞屋上に鉄塔を立てはじめたじゃない。それを見た警察が「ここがメインステージだ」と考えるのは、当然だよ。
高橋●話を先に進めると、駐車場内にいる機動隊の前にフェンスがある。われわれの部隊はやる気満々だから、フェンスによじ登って「行くぞー!」って気勢をあげる。そうすると機動隊は、団扇で煽られたように楯を担いで後退する。それを見て、「やる気がまったくないな」と感じたね。

吉鶴●8ゲートに突入してすぐの場所が十字路になっていて、トラックで左に曲がると、すこし遅れて機動隊がきましたね。
大森●整列して「さあ、行こう」というときに、トラックだけがスルスルと前に行ってしまった。トラックの部隊は武器を持っていない。「えー、どうするの?」と思った。
佐々木●トラックに乗っていたのは吉鶴君など、管制塔突入のためのマンホール入りに失敗したグループ。ひたすらパクられるために、先を急いだんじゃないの?

吉鶴●僕たちは、トラックに乗っていることが任務だったんだけど、あの局面では一歩、先に行ってしまった。本当はすぐに曲がって管制塔の下に出る予定だったのが、警備本部の正面玄関に出てしまった。警備本部を守っていた制服警官は全員、8ゲート突入の本体が自分たちのほうに来ると考えたので、ピストルをぬいて構えていた。トラックには大館さんや高橋さんなど、パクられてはいけない人たちが何人か乗っていたので、彼らを一度、トラックから降ろした。
佐々木●十字路に出る手前で1回止まって、降りたよな。

吉鶴●そのあとは突っこむわけです。しかし、長時間の行軍なので疲れきった連中がいて、彼らを拾った結果、トラックには10人くらいが乗っていた。そのあとで、まちがえて警備本部前に突っこんでしまった。その瞬間、撃たれた。パン、パン、パンという乾いた音が響いて、「なんだろう」と思ったら、それがピストルの発射音だった。
                           (『1978・3・26 NARITA』より)


♪とっても赤ヘルにゃかなわなぁ〜い
 バンバン ババババ ババババン

お巡りさんがスパイダースのファンだったかどうかは、定かでない。
    



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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (13)

 その後の赤ヘル部隊の動きも(『1978・3・26 NARITA』 で見てみます。

*銃口を恐れぬ者たち*
 大森●そうしたなかで印象的だったのは、一部の「跳ね上がり分子」の存在ですね。
 佐々木●そういう人たちは、けっこういたわけ。自分の青春なり人生を賭けて3・26の行動に参加した人たちがたくさんいた。
 吉鶴●僕なんか、「死んでもいい」と思っていた。

 大森●整理していうと、全員が整列して「行くぞー!」と喚声をあげ、トラックが先発した。そのあとを部隊が進むが、機動隊はまだ出てこない。東関東自動車道のガード下をくぐると、その先に機動隊がちらちらと見え出した。インターの方が部隊も大きいし、経験もあったのだが、そのとき、インターと先鋒隊との間で話し合いがおこなわれた。「俺たちが先に突っこむ」と言ったら、インターが「どうぞ」と言ったような記憶がある(笑)。
 
 それで突っこんだのだけど、ガードの坂道を上がったところがT字路になっていて、左側に放水車と機動隊の部隊がいた。こちらは火炎瓶を投げ、警察は放水する。そのように一進一退を繰りかえしていたら、機動隊が放水車を先頭にして、われわれに向かってきた。そして、インター、戦旗が合流して、全体でワーッと喚声を上げ、押しかえしたら機動隊が引きはじめた。分離帯の道路がある場所までは、こちらが攻める一方で、分離帯まで来て対峙関係に入った。
 佐々木●躍り上がって、真上から鉄パイプで機動隊に立ち向かっている写真があるね。
 大森●ああ! この写真がそのときのものだ。分離帯の右側がインター、左側が先鋒隊。戦旗派はうしろでジグザグデモをやっていた。「おいおい、今日はちがうんじゃないの」って言ったけど。そのあとはどんどん前に進めた。そのときの写真もあって、なぜかインターの隊列に1人だけで混じって僕が写ってるのがある(笑)。その日、戻ってきて、夜になって熱田さんの家に行ったら、インター現闘のT君が「テレビにばっちり映っていたよ」と言われたが、それがこの場面。
 
 大館●見る人が見れば、誰かを判別できるような鮮明さでテレビに映っていたらしい。
 大森●このとき、インターが持っていたパイプは比較的軽いもので、それに比べると、先鋒隊のパイプは重かった。1回振り下ろすと、2回目は重くて腕が動かない(笑)。
 高橋●あそこの場面はこちら側の完全制圧で、指揮をするなどという局面ではなかった。みんな、それぞれの判断で、楽しそうにやってるなというかんじで。僕は交差点に立って、「やってる、やってる」と眺めていた(笑)。
 
 大館●私の場合、見えたわけではないが、ピストルの音には驚かされた。
 吉鶴●僕たちは、警備本部の建物に突っこんだでしょ。運転手の指示は、「突っこんだら荷台に火をつけて逃げろ」というものだった。運転席からうしろを振りかえると、指示どおり火をつけている。そこで残りの部隊に火炎瓶と鉄パイプを渡して、前に進むよう指示し、僕は最後にトラックを離れた。警備本部のある管理ビルからは、パンパンとピストルの弾が飛んでくる。僕はピストルを構えている警官から一番近い位置にいたから、何人かに狙われているのがわかった。
 
 大森●どのくらいの距離だった?
 吉鶴●20メートルくらいだったかな。警官はわれわれのいる方には出てこられない。柵の向こう側からピストルを発射していた。
 佐々木●「あの銃口は俺を狙っている」というのが実感としてわかるんだよね。
 吉鶴●狙っている警官に火炎瓶を投げたら、撃ち殺されるというかんじはあったね。僕は管理ビルから撤退する最後尾で、走って逃げたとき、福岡県警の3人組にタックルされて逮捕された。その時点で、8ゲート部隊の戦端は開始されたばかりだった。僕を逮捕した福岡県警は、あろうことか、われわれの部隊と機動隊の間に、弾除けとして僕を連れて行った。たしかに「死んでもいい」と覚悟していたけど、味方にやられるのはイヤだなぁと思った(笑)。
 
 大森●警官隊のピストル発射は、写真などで見ると片手撃ちだけど、僕の記憶では両手撃ちだった。ちょっと膠着状態になったあと、楯の前に出てきて、横一列の両手撃ち。でも、撃ちながら震えているのがよくわかった。一瞬、どうしようかと思ったが、意外と冷静だったな。
 吉鶴●あのとき、プロ青でピストルの弾があたった人はいなかったのですか。
 大森●下のコンクリートにあたった跳弾で、足を負傷したメンバーはいたね。
 吉鶴●バイクヘルにあたったり、着ていたヤッケに貫通した痕が残っていた人もいたみたい。
 
 大森●前年の5・8で東山君がやられたときもそうだが、先鋒隊には「お約束」があった。誰かが前に出て両手を広げ、「撃てるものなら撃ってみろ」というパフォーマンスです。5・8のときには、まだバイクヘルを使用していなかったため、催涙弾の直撃で耳が切れたメンバーもいた。そこで僕も、3・26では「撃ってみろ」と前に出たら、最初は上向きに撃っていたのが水平撃ちになり、本当にピストルの弾が自分をめがけて飛んできた(笑)。
 
 大館●ピストルを撃たれても誰もビビらなかったのが不思議だね。
 佐々木●17〜18発撃ったというのを聞いたことがある。
 大門●放送局がテープを聞きなおして、何発発射したと教えてくれたね。
 前田●「あのとき、ピストルにあたって死ぬやつがいなくて本当によかった」と後藤田正晴が述懐したということを、ある新聞記者から聞いたけど、「1人でも殺したら負けだぞ」というのが事前に後藤田が警備本部に指示した内容だったそうです。
  (『1978・3・26 NARITA』より)

このブログはもともと、この本を知ってほしくて、紹介しつつ三里塚闘争を考えてみようと思って開始されたもの。それでも、この8ゲート部隊の闘いの一部を本からそのまま写し取っても、こんなに分量がかさんでしまいます。
でも、昔の闘争に参加した人だけでなく、まったくそれを知らない世代にも読んでほしいと思うのであります。そのまま、長文を写し取っています。

過激派ということばも死語の仲間入りしようとしています。
けれども、私は思うのです。
「死ぬかもしれない」なんぞという気持ちの決め方もありましたが、よく読んでもらえば、いまの人々とどれほど遠いだろうか。

人間は人間。
やることはちょぼちょぼです。誰もがこんな力を発揮する。

問題は、そのような力を発揮させない、運動や組織つくられ方にあるのに違いない。
むろん、同じことをやれ! と、言っているのではありません。
闘いは、やわ、とか過激とか、本質的な違いなどありはしない、ということです。

人間が共感する回路を作り出す闘いこそが、いつの時代も求められているのにちがいありません。

remol

 
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (14)

長いお休みでした。お詫びいたします。
事情があって、このブログを更新できずにおりました。
事情は……、
「黙秘に決まってるだろ! え、検事さんよ」。
さ、それではまた、ぼちぼち行こか。

3・26は、いつまでたっても3・26です。
今日もまた、NHKの野球放送(甲子園の選抜大会)が映るのをチラと見たとたんに、管制塔へ引き戻されました。

はつりだワッショイ! をやっている最中、管制室のTV画面は、春の選抜高校野球の青春球児が管制室の赤ヘルとは別の金属棒を振り回していたのでした(いや、まだ木製バットだったのかな?)。
やがて、画面は切り替わり、たたき割られた強化ガラスの向こうで、ハンマーやら鉄パイプを振り上げては打ち下ろすシルエットが流されるようになったのでした。

ふだん、自己顕示欲などからっきしない奴ら(除く・前田)が、自分の動きそのままに、シルエットが動くおもしろさに、そのような感情を妙にかき立てられてしまっていたのでした。
はい、うるさかったのですよ、ヘリコプターが。

さて、お勉強。
航空法では、このような建物に確か60mより近づいてはいけないことになっているのです(たぶん。すみません、30年も前に裁判で知ったことで、記憶として正確でないかもしれません)。
でも、ヘリが航空法に違反していたことは確かなのです。
管制塔の高さも距離も窓のすぐそばまで来て、グワングワンと何機も何機も飛び回っていました。

のちに、航空危険罪として立件されたひとつ、「(管制がなくなり)ヘリの飛行が実際に危険な状態にさらされた」というのは、おそらくはカメラマンや記者に叱咤され、頭をどつかれつつヘリの操縦士が管制塔に近づいたものだと思います。

こうでなければなりません。見上げたものです。自らの使命のためには、航空危険などを気にしてはいけません。
いいぞ、俺らの同志だぁ。
(まぁ、俺たちはこの罪名を先に知っていたら、ずいぶん気にしたかもしれんけど……ハハ)。

さて、思い出してください。
あの要塞を造っていた日々、航空法違反を言い立ててヘリから警告していた警察ヘリは、いったいその飛んでいる状態は、航空法違反(危険飛行)になっちまうじゃないか。

法律は、管制塔被告団の場合、ほとんど味方であったことがありませんでした。
でも、やっぱり、使命のためなら、「見上げたもんだよ、屋根屋ふんどし」の心意気と態度でありたい。
法と行動との関係は、そのように私たちの中にありました。
無法はせず、けれど必要なら、その規制を乗り越える。
俺たちは英雄ではないけれど、恥ずかしながら、ときにはやっちゃうぜ。

ほんのちょっぴり、前田から、自己顕示も分けてもらってね。
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (15)

憲法記念日だそうです。
テレビで流れるニュースには、「憲法記念日」はトップにはこないのですね。
いつの頃からか、たぶんもう何十年も前から、憲法擁護派はこなたで集会、改憲派はあなたで集会、と決まりきった報道だけが、どちらも情けなく熱気の感じられない映像とともになされるだけです。

(改憲)国民投票法の関係で、今年は、自民党の(かつての)偉いさんより、ちと気になる発言が改憲派集会でなされたようでありました。しかし、一方で、沖縄の人々は、基地問題で本当に身に迫る思いで、この日を感じているのではないか、と思えるのでした。

沖縄の人々の「平和主義」は、何度も自分の中で、問い返してはその意味を考えてしまいます。
先日、新聞記者の友人と酒を飲みつつ、ある放言をやっていました。
彼もまた、軍事を考えつつ「改憲派」として、放言をしていたのでありましたが。

「昔っから、どうもわからん言い草があってさ、『今日の平和と繁栄は戦争で死んでいった人のおかげだ』ってやつさ。どうにも気色悪い、嘘っぽさを感じていたんだけどね。でも、こないだ天啓があって、俺は思ってしまった、ありゃ正しいね。

日本軍の兵隊を捕虜にすると、昨日の敵軍にへらへら追従して、これがあのバンザイ玉砕突撃やら、特攻をやっていた連中なのか、とアメリカ兵が戸惑ったという証言が出てくる。

アメリカの戦争直後の日本に対する感じ方は、とてもまともな人間のやることとは思えぬ日本人の戦争の仕方に、とにかく半永久的に武装解除をしてしまわなきゃ、ということだったんだろう。そういう意味では、平和憲法は死者たちが戦いとった唯一無二の『戦果』なんだよ」

なにも管制塔占拠闘争をこれにアナロジーするのではないのですが、ケンカするには、ある徹底性は必要なのだろうとは思います。
むろん、まともな戦略と柔軟な戦術により、落とし所もきちんと見据えてやる、ということなのですが。
悲惨で不正義の、先の大戦とは、俺らのやったことは、けっして同じものではありませんでした。

3・26当日、管制室から中川は、カッパに地下足袋、金星付きの赤いヘルメットにサングラスをかけて、群がるヘリに向かってVサインをかざしていたのでした。
新聞はこの写真を掲げて「ミスターX」と名付け、身元を割り出すために「困ったもんだ」のキャンペーンをはりました。
本人はちっとも悪気はないし、ちとサービスしてやったくらいの話でしょう。

管制室のテレビに映るおのれの姿や、群がるヘリになけなしの自己顕示欲を刺激されて、こんなあられもないカッコをしている頃、管制塔の真下まで押し寄せた8ゲート部隊は、機動隊と肉弾戦をやっていました。
管制塔の上にまで、その音が登ってきていたのです。パイプが盾にぶつかる音、機動隊がコンクリートを盾で打つ、乾いた軽い音……。なんだか不思議な感覚でした。

その眼下の激闘を眺めおろしながら、「もう、こういう闘いは二度とない(できない)」と、つぶやいたメンバーもいたのです。
彼我の力量、カネ、メンバーの犠牲の数を思えば、この感覚の方が現実的なのでしょう。
ゆえになおさら、無理をしてでも追撃戦は、この数日・数週間・数カ月のうちになされなければならなかったのでしたが、果たせなかったのでしょう。

この日を回想する機動隊のお兄さんが、8ゲート部隊を褒めていました。
「向かってくる連中の目がキラキラと輝いて、どうしてこいつらは、こんなに懸命にできるのだろうかと思ってしまった」と。
「常識をはずれた徹底的な抗戦」は、その後、長い間、成田を政治的に規定する力関係をつくったのでした。
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (16)

 ミスターXのVサインは、もちろん余裕のある時間帯の話です。管制塔の直下での闘いは熾烈を極めていました。それを眺めおろして、あれこれ管制塔組は論評なんぞをしていたのでした。
何度も同じようなことを書きましたが、警備本部が解体し、一方で、特に地方から動員されていた機動隊は「つまらん、ケガをするのはアホらしい」と考えていたことも確かです。

管制塔を占拠されて、機器を壊されていて、負けははっきりしているのに、部隊を率いる隊長たちがなんで部下を危険にさらさなければならないのか、そう考えたのも当然でしょう。彼らの戦闘意欲が、いまひとつ不足していたのも、その要因も大きかったと思います。

しかし、そうは言っても、いつまでも赤ヘル集団に「やりたいほうだい」を続けさせているわけにもまいらぬわけで……。ここは、はっきりいえば、8ゲート突入部隊の武器を使い切った(火炎瓶を消費してしまった)時点が、撤退のタイミングでした。

これも、管制塔の赤旗に煽られて、とにかくやる気に燃えるメンバーたちが、何度も何度も突っ込んでくる状況の中で、判断が難しかったようです。統制がとれているのやら、とれていないのやら。
「やめろ!」といったところで、やる奴はやるんです。

*撤退のタイミング*(『1978.3.26NARITA』より)
大森●実際に闘ったのは、到着した午後1時半から2時過ぎまでの、約30分じゃないの。
 佐々木●戦闘そのものは、15分程度だと思う。
 一同●長かった感覚があるが、そんなものだったかもしれないね。

大森●大門さんが撤退の指令を出したのは何時ごろですか。
 大門●時間はよく覚えていないな。
 大館●撤退の指令は、私が受けました。私と無線担当者は一度、機動隊に捕まったのだけど、神奈川の体格のよいメンバーが、私たちを助けてくれました。
 佐々木●撤退の指令が来てから、ちかくにいた中隊長や小隊長に伝えたのだけれど、最前線で機動隊と渡りあっている連中にどの程度まで浸透したのかは、まったくわからなかった。むしろ、一度引いた機動隊が放水車を先頭にもう一度、攻撃してくるのを見て、本格的に撤退をはじめた。火炎瓶もなくなってきたからね。
 大森●引くときのことはよく覚えていない。火炎瓶がなくなってきて機動隊との膠着状態がつづき、もうやることがないや、というかんじじゃなかったかな。

 大門●攻撃する時は簡単だが、撤退命令を出してからが大変だった。部隊をまとめて撤退態勢に入るまで、ものすごく時間がかかった。まだ未練がある連中がいて、部隊がなかなかまとまらない。しかも機動隊が退路である丹波山に集まりだした。攻めてくる可能性があると思うから、こちらも構えながら撤退する。実際には、8ゲート突入部隊の被害はそれほど多くはない。ところが、千葉県警を中心とする横堀要塞方面の機動隊は無傷であり、陽動作戦で退路を守っていた部隊は弱かったから、ここで多くの逮捕者が出てしまった。
 大館●警備本部がズタズタになっていることなど、現場は知りようがなかった。ヘリコプターで追跡されていて、われわれは絶対に機動隊に囲まれていると思っていたから、走って一目散に逃げるのではなく、構えつつ撤退というかんじ。撤退するときの機動隊の動きも遅かった。

 大森●部隊に襲いかかって逮捕するのではなくて、空港の外に押し出すという動きだった。
 大門●警察無線は入らず、頼りは部隊の無線だけなのだけど、その部隊がまとまっていない。退路の途中にいくつか砂利山があり、そこにさしかかると、的確に情報を伝えてきたホテル最上階のメンバーや横堀要塞からも見えなくなる。また、無線でつながっている部隊は、全体が見えないから自分たちのことだけを伝えてくる。そうすると頼りになるのはテレビだけという状況になった。
 高橋●大館君が言うように、包囲されていると思っていたから、じりじりと撤退していった。だから、とても長く感じられたな。(『1978.3.26NARITA』より)

 これもまた、撤退戦の難しさは管制塔組の連中は、当然にも知っておりました。だから、機動隊の動きと、じりじりと時間をかけながらひいて行く赤ヘル部隊を、ドキドキしながら見ていました。
まるで、8ゲート部隊の応援団が、今度は管制塔の上にいるようなものでした。
「帰っちゃいやよ、寂しいわ」とは、むろん思いませんでした。

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『戦士』の往路・戻り道

思わぬ人に思わぬところでバッタリということが、続いておりました。
確かに「管制塔戦士」たる、見覚えのある後ろ姿に、先日、声をかけてしまったのでした。
年に1度、あるいは2度と、それなりに定期に顔を合わせる者もいるのですが、ほんとに久方ぶりに遭遇するしかない者も。

といっても、別に仲が悪いわけではなく、なんとも互いに、「アハハハ!」と笑うばかりで、なんだかいいよねぇ。

共通の友人・仲間の知っている近況を立ち話ですり合わせ。
「死の影」が揺曳する存在が話題の軸になるのも、仕方ありません。みんな、そんなことがあっても、おかしくない御年、バレイを重ねてもいるのであります。

それから数日後、仕事がらみで、弘前へ。
遠い、遠い、新幹線と特急を使っても、6時間もかかった北の文化都市。
そして、駅を降りれば降りとたんに、ここからやってきた管制塔突入組もいたっけな、と思い出すのでした。
互いに「アハハハ」の彼と、弘前からの彼は、まったく不運な思い違いと偶然で、奇妙な「軋轢」のようなものが数年、続いたのではなかったか。
キャラクターと状況の組み合わせが、思わぬ事象も引き起こすのだと、美しい緑の中の城中を歩きながら思いました。

管制塔占拠の表の話の他に、裏にこっそりと忍び込んでいるエピソードもむろんあります。
もし、いつか、書いてもいいよ、ということになれば、むろん、べしゃりいのわたくしは、書くのに違いないのですが。

もひとり、前回、書いた「撤退のタイミング」に合わせることもなく、突撃ばっかり頭にあったらしい「管制塔戦士」のなりそこない、もおりました。
トンガリ小法子のヨシツル君などは、何度も『1978.3.26NARITA』に発言者として登場し、「管制塔戦士」なりそこないの悲哀と、戦闘精神の発露について、涙ながらに語っておられます(笑)。

本州北の果ての管制塔組に重なるように、また、本州西端・九州大学よりやってきたN君も、私は思い出すのであります。
落ち着いた人でした。
突入前夜、たぶん20キロくらいはある鉄パイプの束やら、新兵器「電気銃」なんて恐ろしげなものを、ふたりして運んだのだよね。
警戒をかいくぐりながら、着実な判断を俺に伝え、提案していました。

彼も、前夜、マンホールに入れずに管制塔組にはなりそこなったのですが、なんとまぁ、空港内でちゃんとおまわりさんに銃で足を打ち抜かれて、逮捕されていたのでした。
ずらりと並ばされた逮捕者の中に、足を引きずっている彼の姿を発見したとき、「なんと律儀な」とも、「困ったもんだ」の連帯感も覚えたのでした。

東北の弘前大の彼、九州の九州大の彼、はるばぁる来たぜ、三里塚。
その後、自分の人生をどう生きたのか、詳しくは知りませんが、往路と、そこからの帰路ではなく新しく始まった別の道のシークエンスをいつか聞いてみたいと思います。

「感謝している」といえば、どこか思い上がりに違いないと感じつつ、それでもそのような感情が私の中では、相変わらず湧きあがってくるのでありました。

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