★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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横堀要塞40時間の激闘(6)

まず、読者の皆様におわびです。
横堀要塞は、これまで私が書いた3200m横風用滑走路予定地の延長線上(アプローチ・エリア)ではなく、2500m平行滑走路予定地の南側の延長線上(アプローチ・エリア)に建設されたものでした。
横風用滑走路と平行滑走路は、計画上ではこのあたりで接しており、地点でいえばごく近くになります。
前のブログで誤って書いてしまった箇所は、修正しておきます。
イレギュラーず さん、ご指摘、ありがとうございます。

さささ、激闘の現場に戻りましょう。
高さ12mの要塞の上にそそりたつ20mの鉄塔には、中段と頂点近くの高段と二つの足場がつくられ、防護枠がしつらえてあったように記憶しています。
鉄塔のてっぺんには、♪輪輪輪がぁ三つぅ、の反対同盟旗が翻っていました。夜が更けるにしたがい寒気に覆われ、放水に濡れそぼった同盟旗は、凍てつきながら鉄塔にまとわりついていた、という感じでした。
鉄塔四戦士とても同様、かぶったヘルメットにツララをさげ、この酷寒の夜を耐えます。

谷津を挟んだ台地に据えられた宣伝カーから激励の声。
「眠ってはいけない、凍死の恐れがある。声をかけ、励ましあって、戦い抜くんだ…」
点々と焚き火の炎があがる台地で、腕を組んだ支援者がインターナショナルが歌う。サーチライトの鉄塔上で、彼らも身体を揺らして歌っているらしい。

「俺らは歌を歌うぐらいしかできんのか、いったい何しにここに来たのか? 火に当たっている自分がなんか情けない…。早く、早く…朝が来てくれ」
正直に言うと、そんな感情をもって、鉄塔を見つめ続けておりました。

さすがに朝まで放水はなかったように記憶しております。
けれど、夜が明けるや、直ちに強烈に水が四人に叩きつけられ始めたのでした。
そのたびに、鉄塔は揺れ、反対同盟旗の結わえてある戦端のポールが撓みました。

よせばいいのに、お前はマゾヒストか、大島さんよ!
撓むポールにわざわざ登りあがり、旗に身をくるむようにして、放水を浴びにいく。
ただひたすらしがみ付いて、ヘルメットを高圧の水のほうに傾けて、揺れているのです。

中段にいるお仲間は、これまた銀色の防護服をきた機動隊のレインジャー部隊が近づくたびに、ありとあらゆるものを落として戦い続けていました。
遠く離れた支援者のところまで、音が聞こえてきそうな放水で吹き飛ばされそうになりながら、タンクが空になって放水が止むと、ドバっと立ち上がって両手を振り、パイプを打ち鳴らして、こちらに挨拶を送ってよこすのでした。
いやいや、ほとんど機動隊を愚弄しているというようにも見えるのでした。

何度も何度も、凄まじい高圧の放水を身に浴びながら、彼らはまた夜を迎えたのでした。
横堀街道でもまた、火炎瓶による攻撃が、機動隊に向けられます。
反対同盟は「飯を届けさせろ。上杉謙信だって信玄に塩を送ったではないか」と詰め寄っていました。
後で聞けば、アドバルーンを使って運べないかという案まで、検討されていたのだそうです。

日が落ちてからは、反対同盟のおっ母さんたちが、別の人間に詰め寄るのでした。
「もう、おろしてやってくれ。りっぱにアンちゃんたちは闘ったでねえか」
要塞建設のときから、現場につめて、この闘争を建設隊と一緒につくってきた青行の新二さんや、インターの指導部相手に、涙を流しながら懇願し命令し、「おろせ」と詰め寄るのでした。

(反対同盟ではない、おそらく)農家の婦人が「テレビで見てて、いてもたってもいられなくなっただよ……」と、私たちのまえをオロオロと、何か手にもって(ひょっとして食い物だったのでしょうか)、行きつ戻りつしておられました。

機動隊も手詰まり。なすすべがない状態に追い込まれていました。
このまま、また酷寒の中で激しい放水を続ければ、今夜こそ、闇の中から「死」がその顔を覗かせかねない。
機動隊も、反対派も、その意識がありました。
放水が止んでいました。

そこに新聞記者から情報が入ります。
「1人が体調を崩しているらしい。鉄塔では、1人だけ下ろすという交渉が機動隊と行われていて、機動隊がそれを拒否して全員降りて来いと言っている」というものでした。

反対同盟はここで決断します。
濡れたもの全てが凍り、鉄塔も凍てつく午後9時半。
スピーカーからの新二さんの声が響きます。
「鉄塔死守隊の同士の諸君。これから反対同盟の決定を伝えます。聞こえたら大きく手を振ってください」
サーチライトに照らされたシルエットが手を振る。

「機動隊はもう手も足も出ません。反対同盟は勝利を確認し、全員を降ろすことを決定しました。決定に従って降りてください。2日間の闘争、ごくろうさまでした。わかったらもう一度、手を振りなさい」

こうして半ば凍傷を負い、曲がらぬ手と足で、ゆっくりと4人は地上に降り立ちました。
大島はその前に、また一度、ポールの先端に登攀し、反対同盟旗をほどいて収納しようとしたように見えました。
結び目が凍った旗は、そのままつわものどもの奮戦のあとをとどめました。
降りてくる彼らに、きっと私たちは、叫び続け拍手をしていたに違いないのに、私の記憶では、何か凄まじいばかりに静かな光景として残ります。

「やっと降りてきてくれた」。それが機動隊の感情だったのではないでしょうか。
機動隊の中には、降りてくる4人を拍手で迎えた者たちもいたのだそうです。

remol
1978.2.6二月要塞戦 | comments(4) | trackbacks(0)

横堀要塞40時間の激闘(7)

反対同盟旗に包まれて放水に耐える、鉄塔ひっつき虫style="float:right;" class="pict" />

 2月要塞戦は大きな反響を呼び起こしました。新聞は「まるで不死鳥」と見出しをつけて、鉄塔にしがみ付いて放水に耐える仲間の姿を大きく報じました。リアルタイムで放送したらしいTVの映像に釘付けになった人々も多かったようです。わが母も「4人を死なせなかった反対同盟の勇気に感銘を受けた」と後に語っておりました。
さて、『1978・3・26 NARITA』で、現地の常駐者は次のように振り返っています。

*2月要塞戦から3・26へ*(『1978・3・26 NARITA』)
 前田●ところで、3・26の準備っていうのは、具体的にはいつごろはじめたの?
 早野●3・26の準備? 聞かない方がいいと思うよ。「前日」って言ったら、怒る?
 前田●ああ、そうなの。いいことじゃん、それは。
 早野●あのね、たとえば、こういうことがある。言える範囲でいうね。2月7日、8日(ママ)の2月要塞闘争。あれは非常にきれいな闘争だったと、俺は思うんだよね。こっちが鉄塔建ててるのを、むこうは不意打ちで要塞を壊そうとしたんだけど、「本当に襲いそうだ」っていう連絡が入ったのが半日前。全国に招集かけても、もう間に合わない。現闘で闘うしかない。闘えるはずがない。とりあえず要塞に立て籠もって、頑張れるだけ頑張ろう、と。まぁ2時間かなあ、みたいな。だけど、そのとき、俺たちは火炎瓶3000本を準備した。数はあとで知ったんだけど、警察発表で(笑)。
 
前田●ビンはどうしたの?
 早野●酒屋に行って、いただいてきました。
 前田●あぁ〜。ガソリンは?
 早野●ガソリンは近くのガソリンスタンドにあらかじめ言っておいた。ビンのほうは、ずーっとあとで、謝りに行った記憶があるんだけど、近所の酒屋だと反対運動の支援者だったりするんで、20キロとか離れたところの酒屋。いざというときにかっぱらうために、前もって調べてあった。で、ユンボでドラム缶ごと吊り上げて、それを空き瓶に入れていったんだ。
 前田●うそだろ〜、恐ろしい。
 早野●だから、むこうは急に襲ったのに、入ってみたら、なかにものすごい量の武器があって、驚いたと思うよ。しかも、むこうは何千人の機動隊が横堀要塞を囲みつつある状態で、そこはサーチライトで照らしだされててるわけよ。上にもかなりの数のヘリコプターが飛んでいた。そんななか、冬のドロドロの道を、こっちの現闘が延々と検問をすりぬけて裏道を通って運びこむんだ。
 前田●はぁ〜。

 早野●5月8日の夕日のなかでおこなわれた労農合宿所前での総括集会での、加瀬勉さんの「東山君に捧げるアジテーション」は特筆すべきものがあった。
 そのあと、3・26にむかう過程において、まぁ、ちいさなゲリラをたくさん積み重ねていったけど、誰にも言えない、キリキリとした雰囲気のなかで、本当にやらなきゃいけないっていう気持ちがつくられていく。で、決定的なのは、やっぱり横堀要塞戦だと思うね。
 前田●2月要塞ね。
 早野●そう。つまり、2月要塞が、表向きは3・26のかたちをつくる大きな転換期になるんだけど、でも本当の意味での転換は、その2月要塞をやると決めた反対同盟の気持ちなんだよ。
 要塞建設は、最初は第四インターの団結小屋のところにはじまるんだよ。それが、2期工区の敷地内にひっかかるということで、むこうが最初から強烈にいやがらせをしてきた。そのあとの2月要塞の場所が敷地内からはずれていて、Sさんの土地なので、あまり文句もいってこないだろうと。それで、要するにシンボルを建てようということで、つくられていったわけ。
 
 2月要塞を闘って、警察っていうのはつくづく愚かだなと思ったのは、放っておけば、2月要塞なんてのはただの建物で、なんの意味も問題もないはずなのに、目障りだからって、壊しにくることによって、自分で大きくしちゃうんだよね。それが、2月の6日、7日の2月要塞決戦というのをつくることになるわけなんだけど、むこうがそれをやってきたことによって、それまでシンボルとしてあった要塞が、いきなり闘争の場所に、むこうが仕立ててくれるわけよ。で、こっちも必然的に、あそこが闘争の場だというふうになっていくわけ。
 
それで、なかに入ったやつが全員逮捕されることを覚悟してたわけだけど、あんなに長く戦えるとは誰も思ってなかった。だけど、なかの連中と、たまたまうまく鉄塔を鉄骨の上に建てて、機動隊が近寄れなかった。それから鉄塔のなかに残った4人が、Oを筆頭に冷静だったというのがあって、2日間という長時間になった。
 そして4人の姿が、48時間、まる2日間、全テレビ局で一斉に放送された。機動隊ががっちり囲んで、過激派と呼ばれる若者4人が、ただただ鉄塔にしがみついて、一日中、放水をあびている映像が。夜中は氷点下の世界だよ。延々と水をかけられてる映像が48時間流された。それで、「かわいそうだ〜」「がんばれ〜」という声が全国からあがるわけだね。あれが2時間で終わっていたら、3・26の気分はあそこまで高揚していなかったかもしれない。
 
前田●早野はどこにいたの?
 早野●反対同盟といっしょに、俺はコタツでその様子をテレビで見てた。俺らが無線で「元気だったら、手〜ふれ〜」っていうと、手ふるんだよ。そうすると、まだ大丈夫だとなって。周りでは、反対同盟のお母ちゃんらが、青年行動隊(青行)の幹部連中を囲んで、「もう降ろしてやれ、死ぬから、降ろせ」って、ワンワン泣いてるんだよ。で、「手〜ふれ〜」って言うと、手ふるから、まだ大丈夫だとなって、朝をむかえたわけ。
 4人はメシも食ってないし、一晩中、寝てない。機動隊が来るってわかってたから、徹夜で準備したので、たぶん寝ないでそのまま闘争に入ったと思うんだよね。朝になったら、ぽかぽか、気持ちいい朝になったんだよ。で、「元気だったら手〜ふれ〜」って。手ふったから、日中は大丈夫だ、みたいになってさ。日が昇ってくると、全国からちらほらと集まりはじめるんだよ。前田なんかも駆けつけるわけどさ。

みんなで、「がんばれ〜、がんばれ〜」って言うことしかできないけど。それしかできないけれども、放水をあびて凍ったつららを垂れさげて、4人が鉄塔にしがみついてるのを、ずうっと見てるわけだよ。それはね、同じものを共有していくんだよ、気持ちの部分で。そのときのおっかぁらがそうだけど、「かわいそうだから降ろせ」っていう気持ちが、今度は機動隊に向いていくんだよ。「おまえら、あれ見て、どう思うんだ。死んだらどうするんだ。まだ放水する気か!」って。で、「あいつらといっしょに闘わなきゃ」っていう気持ちが、現場にいたやつも、テレビを見たやつも、全体でつくられていくわけよ。
 
48時間経って、Mが本当にまいっちゃって、腹痛をおこしたときに、「1人降ろしたいんだけど」と機動隊に伝えると、「全員が降りてこなければ引きとらない」って言われて、そこで全員が降りてきて幕引きになった。Mは、思いのほか元気だったんだけどね。
 
 正直にいうね。3・26の闘いを全体的にとらえると、ここがクライマックスだったと思ってる。これ以上のことはできない。本当にいろいろ偶然が重なったんだけれども、本当に気持ちに訴える闘争っていうのは、俺自身、高校を卒業してから新左翼運動に入って、現闘をやめるまで、あれほど心に訴える闘争は見たことがない。みんなが泣く闘争だったな。

remol
1978.2.6二月要塞戦 | comments(3) | trackbacks(0)

鉄塔引っ付き戦士異聞(1)

2月横堀要塞戦は3月開港阻止闘争に大きな影響を与えました。よく2月要塞戦が3・26管制塔占拠の勝利の道を切り開いたと言われましたが、確かに、ここまで警備側がてこずり、鉄塔ひっつき虫たちに愚弄されていなければ、3月に機動隊の精鋭をまた、差し向けて空港警備を「お留守」にする事態は起きなかったでしょう。

この事情は、3・26闘争についてまたあらためて書くことにして、今日は彼らとの「思いがけぬ再会」のエピソードを。

まぁ、長いといえばいえるお務めを果たして、私はバイク乗りになって遊んでおりました。3・26から10年以上たっておりました。
(東映映画みたいでありますが、自分にとって帰るべき組織もなく、インターの鉄塔ひっつき虫たちもまた「足を洗っていた」ようです)。

九州の湯布院に差し掛かり、さぁ、露天風呂にでもはいるべと、金鱗湖によったところでした。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、湖に接して地元の方たちが守ってきた素朴な萱葺きの混浴風呂があるのです。
まだ、そんなに知られてはいない時代だったので、現在の喧騒とはだいぶ違う雰囲気でした。

バイクを止めようとしたら、降りやまぬ雨の中、私のより倍もあるバイクの取り廻しに苦労する妙齢の女性が。「はいはい、お手伝いしますとも」と代わってあげたら、彼女も風呂に入りに来たとおっしゃる。と、いうわけでご一緒したのでありました。

大阪は玉造のユリちゃん(仮名)でありました。色あくまで白く、肢体伸びやかにして、かつ、ろうたけた彼女と、ゆるりとご一緒したのでした。
「(隣の男の子が)激っ!」と、私のほうを振り向いて、こぶしと腕を立ち上げて、カンラカラカラと笑うのでありました。看護婦さんとかで、まぁ、見なれていたのでありましょうか。

自分からわが身の経歴を話すわけはありませんから、たぶん、彼女が「友人で三里塚で逮捕された人がいる」と言ったのでしょう。話を聞いているうちに、私は「あ、あ、あ、アトム!」と叫んでいたのでした。
アトムは関西のお仲間で、現闘員として三里塚にいて、要塞戦の時に鉄塔に登った一人だったのです。ユリちゃんはアトムの連れ合いの同僚でした。
女二人は、医療現場でがんばっている「戦友」のようでありました。

その後、数ヶ月後にユリちゃんのアパートで、アトムと再会しました。
あいかわらずニコニコと、ちっとも変わらぬ彼でありました。
「彼女と籍を入れずにやってるわ。子供が生まれて出生届を出しにいってやな。『わしが言うとんのやから間違いない、わしの子やて』って、役所にかけあってる」と、また笑うのでした。籍が入ってないと、養子縁組か認知でしか、親にはなれん。
「でも、わしの子や!」。
アトム、また権威をからかっとる。
機動隊をよくからかっていたアトムに、昔の話をしたら
「(やってくる支援の)みんなをリラックスさせたくてなぁ」と言うのでありました。

アトムの子供ももう20才くらいでしょうか。
組織を離れても、何だかんだ、自分の生き方は変えないという奴らばかり。
どこかでつながっている大事な仲間。



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