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成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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旅から旅へ「鶴橋・猪飼野」その1

 仕事に追われるというほど、稼いでもいないのに、旅から旅へ歩き回り、あるいは金にもならぬボランティアらしきことをやってしまって、まったく自分でも何をやっているのやら。

と、いうわけで、まずは「ミスターX、ごめんなさい」。
10月頭に、ちらりとソフィア嬢ともどもご尊顔を拝したのでありましたが、声もかけられず、そのままになってしまって、今日まで礼もしておりません。

ほうっておけば、何だかはしたないコメントの書き込みがたまっておりました。
これは、お仕事でやっておられるのでしょうか? それなら、俺の方がもうちょっとおもしろく書けそうな気もするが、とつまらんことも思います。「芸」がほしいよなぁ」と思うのであります。
さてさて、今日は三里塚から離れて、つなぎの記事でありますが、お目汚しにこの間あったことを。

旅続きの仕舞いに、久方ぶりに大阪へ行ってまいりました。
環状線をちょいと南に下がって、鶴橋でありました。
思い出からするイメージするとおり、駅のホームには焼肉の臭いが流れておりました。

すぐ下にもぐりこみ、駅の下に蟻の道の如くに走る路地の商店街を歩きました。
連れは、いつもお仕事で野次喜多道中をしている人なのでしたが、
「初めて駅の下に来ました。こんなふうになっているんだ。昔のアメ横のようですね」とおっしゃる。

色鮮やかなチマやチョゴリに、落ち着いた民族衣装も取り揃えて、華やかな店を過ぎれば、たしかに彼の言うとおり、生活そのものにくっついた食料品がこれでもか、これでもか、と並んでいるのであります。
むろん、わたくしは好物の豚足なぞ店先で買って、かじりつつ歩いたのであります。

必要があって探して入ったお店のおっかさん(オモニ)は、もうすぐ80とおっしゃいます。
「食い方がなっとらん」と叱られつつ、焼肉、たっぷりのキムチやカクテキ、ワタリガニ、あわびのおかゆなんてのが絶品だったのでありました。

さて、そのオモニの言うことにゃ。
「日本人はいったいどうなるんだ。わたしは日本が好きなのに、あんたたち、もう韓国にしてやられるわよ」(意訳)なのでした。
しっかしね、お説ごもっともと、わたくし深く同意いたしていたのでありましたから、反論など思いもよりません。
彼女は二世ですが、ここ鶴橋に来るまでの話も少し伺えば、「日本を愛するという言葉」もある重さとリアリティがありました。

日本の若者がコンジョもなくし、礼儀もわきまえぬ、まっとうな生き方も、できんようになったのは、「教育勅語」を教えなくなったせいだ、ともおっしゃいました。
こういうときのお約束ではありますが、彼女はよどみなくそれを誦されました。
「朕オモフニ、我ガ皇祖皇宗国ヲハジムルコト宏遠ニ……」

「夫婦相和シ」でわたくしを撃ち、「朋友相信ジ」で連れの喜多さんとともに諭され、彼女がこれまで生きたあり方と、心の持ち方を経験的に併せて語られると、確かにそれはケンケンフクヨーしなければならぬものでありました。

彼女、少女時代は、三重の石原産業で働く、朝鮮人労働者の頭の娘として過ごしたらしいのですね。そのときの食いモン(ホルモン)やらキムチの話も、聞いたのでした。
石原産業といえば、あの四日市喘息のほかならぬ元凶にして、大気汚染防止政策にあくどく抵抗した「りっぱな会社」であります。そんなことをこちらがのたまえば、「あんた、それは戦後のこと」と、どちらが擁護者かわかりゃせぬ。
ほんとのこといえば、当たり前のことだけど、彼女だって分かっていないわけがなくてね。
「小僧、利いた風な口をきくんでない」と、いうお話だ。

実は、よく思うことがあります。
教育勅語や軍人勅諭を、よくよくケンケンフクヨーせずして、日本の「左翼」は左翼になるべきではない、と。
あれを読んでいると、当時の日本という国の、ギリギリの「綱領」と気がしてきます。指導者が「」つきの国民にむけて、天皇に「呼びかけ」をさせているのだと、という感じがするのです。
ほんと、あれを読むと、情けなくてせつなくて……。
戦前の天皇制がよく頭に家父長制的と冠をつけられているのが、なるほどそのとおりと納得しつつ、その家父長制なるものの、スケールが小さく惨めなこと、直に国民に呼びかけなければ、一瞬たりとも他国に強がりのできぬ情けない匂いをぷんぷん出している。

勅語にせよ、勅諭にせよ、右翼が喜び、大事にするほどのたいそうなものでなく、実態は、そんなものだったと思えてなりません。

あのオモニ、どこか、そんな匂いをかぎつけていそうな人でありました。
一方で、私が見てきたりっぱな左翼人士たち、つまり三里塚で出会った、あの時代の活動家たちは、これらの教育勅語や軍人勅諭に、知らずに応えている人格のやつらが、ようけいたような気もするのでありました。

むろん、そんなことをあのオモニには、わたしは語らずに店を去ったのでありました。
その翌日、また、その近くで、思いがけぬ(ほんとは「思ってばかり」の)人物に、数十年ぶりに邂逅したのでありました。






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