思わぬ人に思わぬところでバッタリということが、続いておりました。
確かに「管制塔戦士」たる、見覚えのある後ろ姿に、先日、声をかけてしまったのでした。
年に1度、あるいは2度と、それなりに定期に顔を合わせる者もいるのですが、ほんとに久方ぶりに遭遇するしかない者も。
といっても、別に仲が悪いわけではなく、なんとも互いに、「アハハハ!」と笑うばかりで、なんだかいいよねぇ。
共通の友人・仲間の知っている近況を立ち話ですり合わせ。
「死の影」が揺曳する存在が話題の軸になるのも、仕方ありません。みんな、そんなことがあっても、おかしくない御年、バレイを重ねてもいるのであります。
それから数日後、仕事がらみで、弘前へ。
遠い、遠い、新幹線と特急を使っても、6時間もかかった北の文化都市。
そして、駅を降りれば降りとたんに、ここからやってきた管制塔突入組もいたっけな、と思い出すのでした。
互いに「アハハハ」の彼と、弘前からの彼は、まったく不運な思い違いと偶然で、奇妙な「軋轢」のようなものが数年、続いたのではなかったか。
キャラクターと状況の組み合わせが、思わぬ事象も引き起こすのだと、美しい緑の中の城中を歩きながら思いました。
管制塔占拠の表の話の他に、裏にこっそりと忍び込んでいるエピソードもむろんあります。
もし、いつか、書いてもいいよ、ということになれば、むろん、べしゃりいのわたくしは、書くのに違いないのですが。
もひとり、前回、書いた「撤退のタイミング」に合わせることもなく、突撃ばっかり頭にあったらしい「管制塔戦士」のなりそこない、もおりました。
トンガリ小法子のヨシツル君などは、何度も『1978.3.26NARITA』に発言者として登場し、「管制塔戦士」なりそこないの悲哀と、戦闘精神の発露について、涙ながらに語っておられます(笑)。
本州北の果ての管制塔組に重なるように、また、本州西端・九州大学よりやってきたN君も、私は思い出すのであります。
落ち着いた人でした。
突入前夜、たぶん20キロくらいはある鉄パイプの束やら、新兵器「電気銃」なんて恐ろしげなものを、ふたりして運んだのだよね。
警戒をかいくぐりながら、着実な判断を俺に伝え、提案していました。
彼も、前夜、マンホールに入れずに管制塔組にはなりそこなったのですが、なんとまぁ、空港内でちゃんとおまわりさんに銃で足を打ち抜かれて、逮捕されていたのでした。
ずらりと並ばされた逮捕者の中に、足を引きずっている彼の姿を発見したとき、「なんと律儀な」とも、「困ったもんだ」の連帯感も覚えたのでした。
東北の弘前大の彼、九州の九州大の彼、はるばぁる来たぜ、三里塚。
その後、自分の人生をどう生きたのか、詳しくは知りませんが、往路と、そこからの帰路ではなく新しく始まった別の道のシークエンスをいつか聞いてみたいと思います。
「感謝している」といえば、どこか思い上がりに違いないと感じつつ、それでもそのような感情が私の中では、相変わらず湧きあがってくるのでありました。