★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (15)

憲法記念日だそうです。
テレビで流れるニュースには、「憲法記念日」はトップにはこないのですね。
いつの頃からか、たぶんもう何十年も前から、憲法擁護派はこなたで集会、改憲派はあなたで集会、と決まりきった報道だけが、どちらも情けなく熱気の感じられない映像とともになされるだけです。

(改憲)国民投票法の関係で、今年は、自民党の(かつての)偉いさんより、ちと気になる発言が改憲派集会でなされたようでありました。しかし、一方で、沖縄の人々は、基地問題で本当に身に迫る思いで、この日を感じているのではないか、と思えるのでした。

沖縄の人々の「平和主義」は、何度も自分の中で、問い返してはその意味を考えてしまいます。
先日、新聞記者の友人と酒を飲みつつ、ある放言をやっていました。
彼もまた、軍事を考えつつ「改憲派」として、放言をしていたのでありましたが。

「昔っから、どうもわからん言い草があってさ、『今日の平和と繁栄は戦争で死んでいった人のおかげだ』ってやつさ。どうにも気色悪い、嘘っぽさを感じていたんだけどね。でも、こないだ天啓があって、俺は思ってしまった、ありゃ正しいね。

日本軍の兵隊を捕虜にすると、昨日の敵軍にへらへら追従して、これがあのバンザイ玉砕突撃やら、特攻をやっていた連中なのか、とアメリカ兵が戸惑ったという証言が出てくる。

アメリカの戦争直後の日本に対する感じ方は、とてもまともな人間のやることとは思えぬ日本人の戦争の仕方に、とにかく半永久的に武装解除をしてしまわなきゃ、ということだったんだろう。そういう意味では、平和憲法は死者たちが戦いとった唯一無二の『戦果』なんだよ」

なにも管制塔占拠闘争をこれにアナロジーするのではないのですが、ケンカするには、ある徹底性は必要なのだろうとは思います。
むろん、まともな戦略と柔軟な戦術により、落とし所もきちんと見据えてやる、ということなのですが。
悲惨で不正義の、先の大戦とは、俺らのやったことは、けっして同じものではありませんでした。

3・26当日、管制室から中川は、カッパに地下足袋、金星付きの赤いヘルメットにサングラスをかけて、群がるヘリに向かってVサインをかざしていたのでした。
新聞はこの写真を掲げて「ミスターX」と名付け、身元を割り出すために「困ったもんだ」のキャンペーンをはりました。
本人はちっとも悪気はないし、ちとサービスしてやったくらいの話でしょう。

管制室のテレビに映るおのれの姿や、群がるヘリになけなしの自己顕示欲を刺激されて、こんなあられもないカッコをしている頃、管制塔の真下まで押し寄せた8ゲート部隊は、機動隊と肉弾戦をやっていました。
管制塔の上にまで、その音が登ってきていたのです。パイプが盾にぶつかる音、機動隊がコンクリートを盾で打つ、乾いた軽い音……。なんだか不思議な感覚でした。

その眼下の激闘を眺めおろしながら、「もう、こういう闘いは二度とない(できない)」と、つぶやいたメンバーもいたのです。
彼我の力量、カネ、メンバーの犠牲の数を思えば、この感覚の方が現実的なのでしょう。
ゆえになおさら、無理をしてでも追撃戦は、この数日・数週間・数カ月のうちになされなければならなかったのでしたが、果たせなかったのでしょう。

この日を回想する機動隊のお兄さんが、8ゲート部隊を褒めていました。
「向かってくる連中の目がキラキラと輝いて、どうしてこいつらは、こんなに懸命にできるのだろうかと思ってしまった」と。
「常識をはずれた徹底的な抗戦」は、その後、長い間、成田を政治的に規定する力関係をつくったのでした。
1978.3.26管制塔占拠 | comments(9) | trackbacks(0)

「ミスターX」 はパックであった!

せっかくのミスターXのフューチャーであります。
この「軽薄の徒」が、家族にどんな思いをさせたか(いえいえ、正確に言えば、警察権力の弾圧に家族が、どんな目にあわされたかなのですが……と、いうのもなんか笑っちゃいます)、せっかくですから、『1978.3.26NARITA』から、引いておきます。
「カミさん」またの名を「ソフィア・ローレン」(ミスターXはそう呼ぶ)が、後の裁判で「身は離れても心はひとつです」と証言した名場面も忘れがたいのですが、当日の仰天ぶりも彼女を知る者の心を揺さぶります。

ここで言う「パック」とは、ミスターXがご幼少のみぎりに小学校の授業において、関白太政大臣を「カ〜ン・パック」と叫んでいらいの別名であるのであります。
ほれほれ、栴檀は双葉より軽薄。
というわけで、3・26当日。

*「一緒に買った服」がテレビに*(『1978.3.26NARITA』より)
 ソフィア・ローレン●私は図書館に勤めていたので、日曜日は仕事だったの。だから、職場にいました。ただ、3・26になんかやるっていうのは聞いていたから、職場の友だちなんかと朝から「始まるね」みたいな話はしていたのね。そしたら、管制塔が占拠されたって報道されてるじゃない。「わー、すごい!」「やってるな」「頑張ってるね」とかみんなで言い合ったりして。ピストルが出てきたとかって聞くと、「やる気だね、向こうも」なんて話してた。

 そうしてしばらくすると、姉から職場に電話がかかってきたんです。姉は「管制塔占拠して捕まった人たちがテレビに映ってるけど、これってパック(当時仲間たちからこう呼ばれていた)じゃない?」って聞くのね。私は「それは絶対ない。人違いだよ」と即座に否定しました。というのは、以前、彼は「もう30にもなるから、自分はそんな先頭には行かない」って言ってたから。でも、彼にしょっちゅう会っていた姉が「あれはどう見てもそうだよ。家に帰ってニュース見てごらん」って何度も言うので、心配になって……。だから、仕事が終わるとすっ飛んで帰りました。それで、7時のNHKのニュース見たら、パックが管制塔の階段から降りてくるのが映ってて(笑)。もう「エー!」って感じよ。

 前田●それははどういう気持ち?
 ソフィア●なんか頭の中が真っ白っていうか……ほんとに「エー!」っていうしかないような。とにかくすっごくショックだった。
 前田●顔が見えたの?
 ソフィア●もちろんそれもあるけど、彼が着ていたのが、1週間くらい前に、釣り道具屋で一緒に買った見覚えのある服なのよ。これは間違いないと確信した。
 X●「釣りに行くときに着る」って言って買ったんだよ。
 ソフィア●もうパニックですよ。どうしようどうしようって。ほんとにどうなるのか全然わかんなかった。仕事やめるんだろうなとか、外に出られないかなとか、いろんなこと考えてた。警察もすぐ来ちゃうんじゃないかと思って、すごく恐ろしくなって、とにかく家にある三里塚関係のものを全部隠すことにしたのね。それで職場の友だちに、「ちょっと運びたいものあるから、車で来て」って電話して、その日のうちに運び出したの。友だちは、なんにも言わなかったんだけど、すぐに来てくれて。ありがたかったなぁ。

 前田●警察はいつ来たの?
 ソフィア●それから彼の身元が割れるまでがすごく長かったんじゃないかな。
 X●とにかくなかなか俺の身元は判明しなかったんで向こうもかなり困ってたみたい。わかったときは取調官が来て「もう、なんにも言わなくていいから」って言って大喜びしてたよ。
 ソフィア●ほかの人がみんな判明したのにパックだけ全然わかんなかった。私の方はというと、救対の人たちから、警察はいつやって来るか分からないから心の準備をしておいたほうがいいって言われていたから、朝早くても夜遅くても大丈夫なように、寝るときはパジャマに着替えないで、普通の恰好で床に就きました。初めての経験だから、なんにもわかんなくて。こっちは緊張感から少しでも抜け出したかったんで、正直、「早く名前が割れちゃえばいいのにな」ってチラッと思ったりもしてね(笑)。

 身元が分かったという連絡は、弁護士さんからありました。職場に電話があって「今日あたり警察が行きますよ」って。それで、帰宅すると、家の前に警察がいるのが見えたのよね。私、即座に隠れて、そのままスーパーとか回ったりしてた。警察が帰るまで、「まだいるかな」と何度も確認しに行って、いなくなってから、サッと家に入ったんです。そしたら、家の中に置いてある物の場所がいろいろ変わっていた。家宅捜索されたわけ。

 前田●警察が勝手に?
 ソフィア●大家さんが一緒に開けたらしい。私が、家に帰ってしばらくしたら、その大家さんが来て、「昼間ね、すごくたくさん警察の人が来て家の中をいろいろ探してたけど、押収物はなんにもなかったよ」って言うの。それで、「奥さん、関係ないんだよね」って聞くから、「全然ありません」って答えました(笑)。その大家さんは、そのあともずっとよくしてくれましたね。(『1978.3.26NARITA』より)


やっぱり彼女の方に、信用があったのでありました。
黒いカッパ着て、地下足袋履いて、金星赤メットかぶって、大事な彼女をおいて、なんの魚を釣りに行くつもり?

魚釣り今日からどこまで行くのやら

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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (16)

 ミスターXのVサインは、もちろん余裕のある時間帯の話です。管制塔の直下での闘いは熾烈を極めていました。それを眺めおろして、あれこれ管制塔組は論評なんぞをしていたのでした。
何度も同じようなことを書きましたが、警備本部が解体し、一方で、特に地方から動員されていた機動隊は「つまらん、ケガをするのはアホらしい」と考えていたことも確かです。

管制塔を占拠されて、機器を壊されていて、負けははっきりしているのに、部隊を率いる隊長たちがなんで部下を危険にさらさなければならないのか、そう考えたのも当然でしょう。彼らの戦闘意欲が、いまひとつ不足していたのも、その要因も大きかったと思います。

しかし、そうは言っても、いつまでも赤ヘル集団に「やりたいほうだい」を続けさせているわけにもまいらぬわけで……。ここは、はっきりいえば、8ゲート突入部隊の武器を使い切った(火炎瓶を消費してしまった)時点が、撤退のタイミングでした。

これも、管制塔の赤旗に煽られて、とにかくやる気に燃えるメンバーたちが、何度も何度も突っ込んでくる状況の中で、判断が難しかったようです。統制がとれているのやら、とれていないのやら。
「やめろ!」といったところで、やる奴はやるんです。

*撤退のタイミング*(『1978.3.26NARITA』より)
大森●実際に闘ったのは、到着した午後1時半から2時過ぎまでの、約30分じゃないの。
 佐々木●戦闘そのものは、15分程度だと思う。
 一同●長かった感覚があるが、そんなものだったかもしれないね。

大森●大門さんが撤退の指令を出したのは何時ごろですか。
 大門●時間はよく覚えていないな。
 大館●撤退の指令は、私が受けました。私と無線担当者は一度、機動隊に捕まったのだけど、神奈川の体格のよいメンバーが、私たちを助けてくれました。
 佐々木●撤退の指令が来てから、ちかくにいた中隊長や小隊長に伝えたのだけれど、最前線で機動隊と渡りあっている連中にどの程度まで浸透したのかは、まったくわからなかった。むしろ、一度引いた機動隊が放水車を先頭にもう一度、攻撃してくるのを見て、本格的に撤退をはじめた。火炎瓶もなくなってきたからね。
 大森●引くときのことはよく覚えていない。火炎瓶がなくなってきて機動隊との膠着状態がつづき、もうやることがないや、というかんじじゃなかったかな。

 大門●攻撃する時は簡単だが、撤退命令を出してからが大変だった。部隊をまとめて撤退態勢に入るまで、ものすごく時間がかかった。まだ未練がある連中がいて、部隊がなかなかまとまらない。しかも機動隊が退路である丹波山に集まりだした。攻めてくる可能性があると思うから、こちらも構えながら撤退する。実際には、8ゲート突入部隊の被害はそれほど多くはない。ところが、千葉県警を中心とする横堀要塞方面の機動隊は無傷であり、陽動作戦で退路を守っていた部隊は弱かったから、ここで多くの逮捕者が出てしまった。
 大館●警備本部がズタズタになっていることなど、現場は知りようがなかった。ヘリコプターで追跡されていて、われわれは絶対に機動隊に囲まれていると思っていたから、走って一目散に逃げるのではなく、構えつつ撤退というかんじ。撤退するときの機動隊の動きも遅かった。

 大森●部隊に襲いかかって逮捕するのではなくて、空港の外に押し出すという動きだった。
 大門●警察無線は入らず、頼りは部隊の無線だけなのだけど、その部隊がまとまっていない。退路の途中にいくつか砂利山があり、そこにさしかかると、的確に情報を伝えてきたホテル最上階のメンバーや横堀要塞からも見えなくなる。また、無線でつながっている部隊は、全体が見えないから自分たちのことだけを伝えてくる。そうすると頼りになるのはテレビだけという状況になった。
 高橋●大館君が言うように、包囲されていると思っていたから、じりじりと撤退していった。だから、とても長く感じられたな。(『1978.3.26NARITA』より)

 これもまた、撤退戦の難しさは管制塔組の連中は、当然にも知っておりました。だから、機動隊の動きと、じりじりと時間をかけながらひいて行く赤ヘル部隊を、ドキドキしながら見ていました。
まるで、8ゲート部隊の応援団が、今度は管制塔の上にいるようなものでした。
「帰っちゃいやよ、寂しいわ」とは、むろん思いませんでした。

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