★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
<< June 2009 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (11)

 8ゲートの部隊の兵隊さんたちが「突入だぁ」と指揮者を突き上げていた頃、管制塔の「はつりだワッショイ」は、もう決着していました。。

もちろん、管制室(飛行場管制業務)と、14階マイクロ通信室(洋上管制通信業務)を破壊し尽くしたのですから、実際的なダメージは巨大なものでした。
ドカン、ドカン、とハンマーをふるっている最中に、管制室には電話がかかってきたのです。
受話器を取った水野の耳には「そこには大事な機械があるのです。壊すのをやめてください」と、いう涙でつまる声が残っています。

「ごめんね」とは思うけれど、こっちも大事なお仕事さ。
現地の農民に宿ってきた激しい抵抗の心、いま、電話の主が流すらしい涙よりずっと人間的な涙、苦しい胸の内を知る努力をして、少しでも大事にしてきたら、こんなことにはならなかっただろうに。
もう、遅いのよ。

水野は「ただいま、占拠中!」と怒鳴って、受話器をたたきつけます。

もし、より重要な機器がある場所を特定されていたのなら、そこへまた、無理をしてでも向かったかもしれません。
実際は、占拠部隊はそれを知りませんでした。計画を立てたものたちも、そこまでは、調べ尽くしていなかったようです。
けれど、より開港阻止が廃港へと直結する、空港の息の根を止める可能性があったかもしれない重要な機器は、管制塔の下の管理棟の最上階(だったと思う)にあったようで、そこへのアタックは試みられませんでした。

管制塔に突入した戦力で、その作戦遂行ができたかどうかは、難しいところです。
前田なんぞは調子いいですから、「ホースで水をぶっかけ回せばよかったんだ」なんてことを、あとで言っておりましたが。

しかし、それでも思うのは、仮にその場所を知り、そこへ戦力を集中してうまくいったとしても、あの一番高い管制室を占拠するより、空港反対闘争をアピールする闘いにはならなかったのではないかということです。

やはり、あの高いところで、サングラスの中川が月光仮面のように突っ立って、Vサインしているところが絵になり、ガラスの向こうで大ハンマーが機器に打ち下ろされるシルエットが浮かび、そこから喚起されてくるイメージこそが、私は大切だったと思うのであります。

管制塔上のこの光景は、むろん、8ゲート部隊の「やる気」に火をつけずにおくものか。


大森●「行く」と決めるまで、5分ぐらいかかって、すでに3分の2くらいは引きはじめていたときだった。先鋒隊は「今日はパクられる」という覚悟をしていたから、「引くのかよー」と野次を飛ばしたわけ。ここまではわれわれの行動指導部がついていたから、「野次るな」と止められた。

大館●インターの内部からは、吉鶴君など管制塔に入れなかった人たち、それから小隊長、中隊長を含めて、「大館よ、ここまで来て、なんで帰るんだ!」と言いつづける。私は私で、「これまで訓練を続けてきた2年間が、このままでは吹っ飛んでしまう」と感じて、本部に「行かせてくれ。このままでは現場がもたない」と連絡した。結論が出るまで5分間ぐらいかかったと思いますよ。その間ずうっと、希一さんがアジっていた。

大門●そのとき、私はもちろん「行くな」という指示を出していたのだけれど、「誰が行きたいと言っているのか」と大館君に聞いたら、「吉鶴たちだ」と言う。「車で突入する」という連中もいた。「最後は、収まらないから行かせるしかないか」と悩んでいたら、本部の誰かが「行くと全滅するぞ」と言ったが、「どこかで引かせるから」とゴーサインを出した。
大館●突っこんでいいという指令が出たときは、本当にうれしかった。自分たちは部隊を預かっているので、突っこまなかったら、どうなるのだろうと感じていたから……。

佐々木●「これで、プレッシャーから解放された」という感覚は非常に強かった。ただし、それまで撤収のアジテーションしていた僕は大変だったけど(笑)。「管制塔に突入した同志を迎えに行くぞー!」って、突然、アジの調子を変えたわけだから。
吉鶴●「本部から突入の指令が出た!」と誰かが言ったのを覚えてる。
佐々木●トラック周辺に詰め寄っている連中が、大声で「オー!」って、叫んだからね。

高橋●でも、決断までの5分間というのは、けっこう長く感じたなぁ。もう赤旗が揚がっているので、本部に「どうするか」と聞こうとしたが、無線機の周波数がなかなか合わない。「管制塔が見えた。もう目的は達成した」とアジテーションをしているのに、中隊長の中には、そのような意志統一をしていない人もいて、「同志諸君、管制塔にはすでに突入した同志がいる。われわれが行かなくて、どうするのか」とアジっている(笑)。そうこうしているうちに、行くことになった。

本人たちはコマンドのつもりだが、部隊の性格は大衆部隊で、とにかく機動隊とぶつかるという気持ちが強い。だから、隊長までは全体の陣形を心得ているが、それ以外の部分は前夜も当日の朝も、「武器がなくなるまで撤退しない。われわれが撤退するのは武器を全部使い切ったときだ」と、口々に決意表明しているわけです。電気銃だとか、新兵器もいろいろ準備していたので、「まだ何も使っていないじゃないか」ということになる。

佐々木●部隊が撤収する際に捨てた火炎瓶のケースを、「忘れ物だ、もったいない」と思った女性2人が、再び担いで前線に運ぼうとしたという話もある。彼女たちは、そのケースを担いだまま、機動隊に逮捕された。それくらい「武器がなくなるまで撤退しない」という思いは強かったね。
                               (『1978・3・26 NARITA』より)

変な話だけど、8ゲートの連中の様子を聞くと、笑いながらも涙がにじんでくるような気分になるのであります。

remol




1978.3.26管制塔占拠 | comments(0) | trackbacks(0)

新山君のことは忘れない

何度も書いてきたとおり、トラック2台で空港内へ突入した9ゲート部隊の行動なくして、管制塔占拠は成功しなかったでしょう。
その闘いで、火傷を負った新山君が亡くなったのは、2ヵ月半後の確か6月13日のことでした。

でも、私には6月14日のことのように思えてならないのです。たぶん、電報で知らされたのが14日朝のことだったのではないでしょうか。
正確には記憶しませんが「ヤケドナオラズ シス」の文字がありました。

その日、出された千葉拘置所の早めの昼飯は、まったく汁気のない冷やし麺のようなものでした。「こんなときでも、俺は飯が食えるのだ」という、なんだか乾いたやりきれない気分で、その麺をぼそぼそと食んだのでした。

新山は、山形大学の学生のキャップでしたが、当時のインターの運動方針について、いわば「火の玉、三里塚闘争路線」に、けっして賛成ではなかったいうニュアンスの話を、先日、昔の仲間から聞くことになりました。

私たちの組織には、当時の情勢の認識の仕方と、そこから立てる組織方針に、三里塚に全てをかけて、闘うという「火の玉」路線とは違う人たちもいたのです。
新山とは、深く話したことはなかったのですが、中央で催される学生の会議や、ふと立ち話をしたときの彼の落ち着いた印象と、彼が感じていたものが何か重なる気もします。

管制塔組も、管制塔占拠がうまくいき、開港阻止闘争が成功したからこそ、何だか、それなりにエラソーしていられました。
しかし、さまざまな意見を抱えて、あの闘争に参加した多くの人たちのことを、やはり、考えてみなければならないと、自戒をこめて思ったりもするのです。

意見が違ったからといって、新山は、現場を避けるということはありませんでした。むしろ、いちばん、辛く危険な任務を自ら担っていったのです。
そもそも、管制塔に持ち込もうとしたガスカッターを背負うのに、体力的な理由から、小泉と任務を交代することを前日の「謀議」の直前に指示されるまで、彼こそが管制塔へ向かうメンバーだったのですから。

山形大学で、新山の手足のようになって動いていたという小泉も「管制塔占拠計画を知っていたら、指示に逆らってでも、管制塔組に入ったのではないか」と、話したことがありました。
ときおり新山が漏らす、中央=東京への批判を、小泉は、共感をもって受け入れていたといいます。
曰く「東京の連中は切った張ったばかりで運動ができると思っている。俺たちは山形で、種を撒き水をやり、じっくり活動家を育てていこうや」。

新山のその思いは断ち切られてしまいました。それでも、さまざまなことを経験して、あるいは自分のふるさとで、あるいは自分が生きる新たな場所で、新山が抱いた思いと同じものを自分のものとしているかつての仲間は、確実に存在しています。
昔の仲間と会って話をすると、そのことに気づかされたりするものです。

結局は死に向かうことになったベッドの上で、彼は母親に「あば(母さん)、直ったら、また三里塚に行っていいか?」と、語っていたそうです。
方針や意見が違っていても、三里塚で闘うという意識は、これっぽっちも「火の玉」路線の人々とかわりはなかったのでした。

今年の春、ある人と初めて仕事をしました。
世の中、恐ろしいもので、先に私の名前を伝えられた彼は、私の名をネット検索にかけたのらしいのです。まぁ、ありえます。相手がどんなものを書いているのか、どんな仕事をしているのか、知っておくことは、彼にとっては事前準備だったのです。

と、いうわけで、正確ではありませんが、「正体」を知られてしまっていたのでした。そして、後日、彼は自分が世話になった人からの預かりものだと、ある写真を電送してきたのです。

ベッドの上で、じっと天井を凝視している、たぶん9ゲート戦士のI 君の写真でした。思わぬ辛さに、わたしは惑乱しかかったのでした。
何の仕事で撮られた写真なのか、わかりません。
たぶん新山ではないので、彼が亡くなる前のものか、その後の時期のものかも、私には分かりません。

何を考えていた時のものか、分からないけれど、一緒に管制塔へと突入して行った9ゲートの仲間の、どうにもならぬ深く静かな表情が、一直線に私の胸を打ちました。

人の命には、尊厳というものが間違いなくある。そのことを、原理として受け入れることや、受け取ることができないような組織や運動は、私には意味のないものだ。
どれほど勇ましい掛け声や、美辞で飾っても、この感覚をもっていない運動や組織は、すぐ分かるくらいのつもりはある。

静かに俺は、新山の命や、管制塔の仲間で一人先に逝ってしまった原の命を自分の身体に入れております。

remol
- | comments(4) | trackbacks(0)