★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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横堀要塞40時間の激闘(7)

反対同盟旗に包まれて放水に耐える、鉄塔ひっつき虫style="float:right;" class="pict" />

 2月要塞戦は大きな反響を呼び起こしました。新聞は「まるで不死鳥」と見出しをつけて、鉄塔にしがみ付いて放水に耐える仲間の姿を大きく報じました。リアルタイムで放送したらしいTVの映像に釘付けになった人々も多かったようです。わが母も「4人を死なせなかった反対同盟の勇気に感銘を受けた」と後に語っておりました。
さて、『1978・3・26 NARITA』で、現地の常駐者は次のように振り返っています。

*2月要塞戦から3・26へ*(『1978・3・26 NARITA』)
 前田●ところで、3・26の準備っていうのは、具体的にはいつごろはじめたの?
 早野●3・26の準備? 聞かない方がいいと思うよ。「前日」って言ったら、怒る?
 前田●ああ、そうなの。いいことじゃん、それは。
 早野●あのね、たとえば、こういうことがある。言える範囲でいうね。2月7日、8日(ママ)の2月要塞闘争。あれは非常にきれいな闘争だったと、俺は思うんだよね。こっちが鉄塔建ててるのを、むこうは不意打ちで要塞を壊そうとしたんだけど、「本当に襲いそうだ」っていう連絡が入ったのが半日前。全国に招集かけても、もう間に合わない。現闘で闘うしかない。闘えるはずがない。とりあえず要塞に立て籠もって、頑張れるだけ頑張ろう、と。まぁ2時間かなあ、みたいな。だけど、そのとき、俺たちは火炎瓶3000本を準備した。数はあとで知ったんだけど、警察発表で(笑)。
 
前田●ビンはどうしたの?
 早野●酒屋に行って、いただいてきました。
 前田●あぁ〜。ガソリンは?
 早野●ガソリンは近くのガソリンスタンドにあらかじめ言っておいた。ビンのほうは、ずーっとあとで、謝りに行った記憶があるんだけど、近所の酒屋だと反対運動の支援者だったりするんで、20キロとか離れたところの酒屋。いざというときにかっぱらうために、前もって調べてあった。で、ユンボでドラム缶ごと吊り上げて、それを空き瓶に入れていったんだ。
 前田●うそだろ〜、恐ろしい。
 早野●だから、むこうは急に襲ったのに、入ってみたら、なかにものすごい量の武器があって、驚いたと思うよ。しかも、むこうは何千人の機動隊が横堀要塞を囲みつつある状態で、そこはサーチライトで照らしだされててるわけよ。上にもかなりの数のヘリコプターが飛んでいた。そんななか、冬のドロドロの道を、こっちの現闘が延々と検問をすりぬけて裏道を通って運びこむんだ。
 前田●はぁ〜。

 早野●5月8日の夕日のなかでおこなわれた労農合宿所前での総括集会での、加瀬勉さんの「東山君に捧げるアジテーション」は特筆すべきものがあった。
 そのあと、3・26にむかう過程において、まぁ、ちいさなゲリラをたくさん積み重ねていったけど、誰にも言えない、キリキリとした雰囲気のなかで、本当にやらなきゃいけないっていう気持ちがつくられていく。で、決定的なのは、やっぱり横堀要塞戦だと思うね。
 前田●2月要塞ね。
 早野●そう。つまり、2月要塞が、表向きは3・26のかたちをつくる大きな転換期になるんだけど、でも本当の意味での転換は、その2月要塞をやると決めた反対同盟の気持ちなんだよ。
 要塞建設は、最初は第四インターの団結小屋のところにはじまるんだよ。それが、2期工区の敷地内にひっかかるということで、むこうが最初から強烈にいやがらせをしてきた。そのあとの2月要塞の場所が敷地内からはずれていて、Sさんの土地なので、あまり文句もいってこないだろうと。それで、要するにシンボルを建てようということで、つくられていったわけ。
 
 2月要塞を闘って、警察っていうのはつくづく愚かだなと思ったのは、放っておけば、2月要塞なんてのはただの建物で、なんの意味も問題もないはずなのに、目障りだからって、壊しにくることによって、自分で大きくしちゃうんだよね。それが、2月の6日、7日の2月要塞決戦というのをつくることになるわけなんだけど、むこうがそれをやってきたことによって、それまでシンボルとしてあった要塞が、いきなり闘争の場所に、むこうが仕立ててくれるわけよ。で、こっちも必然的に、あそこが闘争の場だというふうになっていくわけ。
 
それで、なかに入ったやつが全員逮捕されることを覚悟してたわけだけど、あんなに長く戦えるとは誰も思ってなかった。だけど、なかの連中と、たまたまうまく鉄塔を鉄骨の上に建てて、機動隊が近寄れなかった。それから鉄塔のなかに残った4人が、Oを筆頭に冷静だったというのがあって、2日間という長時間になった。
 そして4人の姿が、48時間、まる2日間、全テレビ局で一斉に放送された。機動隊ががっちり囲んで、過激派と呼ばれる若者4人が、ただただ鉄塔にしがみついて、一日中、放水をあびている映像が。夜中は氷点下の世界だよ。延々と水をかけられてる映像が48時間流された。それで、「かわいそうだ〜」「がんばれ〜」という声が全国からあがるわけだね。あれが2時間で終わっていたら、3・26の気分はあそこまで高揚していなかったかもしれない。
 
前田●早野はどこにいたの?
 早野●反対同盟といっしょに、俺はコタツでその様子をテレビで見てた。俺らが無線で「元気だったら、手〜ふれ〜」っていうと、手ふるんだよ。そうすると、まだ大丈夫だとなって。周りでは、反対同盟のお母ちゃんらが、青年行動隊(青行)の幹部連中を囲んで、「もう降ろしてやれ、死ぬから、降ろせ」って、ワンワン泣いてるんだよ。で、「手〜ふれ〜」って言うと、手ふるから、まだ大丈夫だとなって、朝をむかえたわけ。
 4人はメシも食ってないし、一晩中、寝てない。機動隊が来るってわかってたから、徹夜で準備したので、たぶん寝ないでそのまま闘争に入ったと思うんだよね。朝になったら、ぽかぽか、気持ちいい朝になったんだよ。で、「元気だったら手〜ふれ〜」って。手ふったから、日中は大丈夫だ、みたいになってさ。日が昇ってくると、全国からちらほらと集まりはじめるんだよ。前田なんかも駆けつけるわけどさ。

みんなで、「がんばれ〜、がんばれ〜」って言うことしかできないけど。それしかできないけれども、放水をあびて凍ったつららを垂れさげて、4人が鉄塔にしがみついてるのを、ずうっと見てるわけだよ。それはね、同じものを共有していくんだよ、気持ちの部分で。そのときのおっかぁらがそうだけど、「かわいそうだから降ろせ」っていう気持ちが、今度は機動隊に向いていくんだよ。「おまえら、あれ見て、どう思うんだ。死んだらどうするんだ。まだ放水する気か!」って。で、「あいつらといっしょに闘わなきゃ」っていう気持ちが、現場にいたやつも、テレビを見たやつも、全体でつくられていくわけよ。
 
48時間経って、Mが本当にまいっちゃって、腹痛をおこしたときに、「1人降ろしたいんだけど」と機動隊に伝えると、「全員が降りてこなければ引きとらない」って言われて、そこで全員が降りてきて幕引きになった。Mは、思いのほか元気だったんだけどね。
 
 正直にいうね。3・26の闘いを全体的にとらえると、ここがクライマックスだったと思ってる。これ以上のことはできない。本当にいろいろ偶然が重なったんだけれども、本当に気持ちに訴える闘争っていうのは、俺自身、高校を卒業してから新左翼運動に入って、現闘をやめるまで、あれほど心に訴える闘争は見たことがない。みんなが泣く闘争だったな。

remol
1978.2.6二月要塞戦 | comments(3) | trackbacks(0)

鉄塔引っ付き戦士異聞(1)

2月横堀要塞戦は3月開港阻止闘争に大きな影響を与えました。よく2月要塞戦が3・26管制塔占拠の勝利の道を切り開いたと言われましたが、確かに、ここまで警備側がてこずり、鉄塔ひっつき虫たちに愚弄されていなければ、3月に機動隊の精鋭をまた、差し向けて空港警備を「お留守」にする事態は起きなかったでしょう。

この事情は、3・26闘争についてまたあらためて書くことにして、今日は彼らとの「思いがけぬ再会」のエピソードを。

まぁ、長いといえばいえるお務めを果たして、私はバイク乗りになって遊んでおりました。3・26から10年以上たっておりました。
(東映映画みたいでありますが、自分にとって帰るべき組織もなく、インターの鉄塔ひっつき虫たちもまた「足を洗っていた」ようです)。

九州の湯布院に差し掛かり、さぁ、露天風呂にでもはいるべと、金鱗湖によったところでした。ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、湖に接して地元の方たちが守ってきた素朴な萱葺きの混浴風呂があるのです。
まだ、そんなに知られてはいない時代だったので、現在の喧騒とはだいぶ違う雰囲気でした。

バイクを止めようとしたら、降りやまぬ雨の中、私のより倍もあるバイクの取り廻しに苦労する妙齢の女性が。「はいはい、お手伝いしますとも」と代わってあげたら、彼女も風呂に入りに来たとおっしゃる。と、いうわけでご一緒したのでありました。

大阪は玉造のユリちゃん(仮名)でありました。色あくまで白く、肢体伸びやかにして、かつ、ろうたけた彼女と、ゆるりとご一緒したのでした。
「(隣の男の子が)激っ!」と、私のほうを振り向いて、こぶしと腕を立ち上げて、カンラカラカラと笑うのでありました。看護婦さんとかで、まぁ、見なれていたのでありましょうか。

自分からわが身の経歴を話すわけはありませんから、たぶん、彼女が「友人で三里塚で逮捕された人がいる」と言ったのでしょう。話を聞いているうちに、私は「あ、あ、あ、アトム!」と叫んでいたのでした。
アトムは関西のお仲間で、現闘員として三里塚にいて、要塞戦の時に鉄塔に登った一人だったのです。ユリちゃんはアトムの連れ合いの同僚でした。
女二人は、医療現場でがんばっている「戦友」のようでありました。

その後、数ヶ月後にユリちゃんのアパートで、アトムと再会しました。
あいかわらずニコニコと、ちっとも変わらぬ彼でありました。
「彼女と籍を入れずにやってるわ。子供が生まれて出生届を出しにいってやな。『わしが言うとんのやから間違いない、わしの子やて』って、役所にかけあってる」と、また笑うのでした。籍が入ってないと、養子縁組か認知でしか、親にはなれん。
「でも、わしの子や!」。
アトム、また権威をからかっとる。
機動隊をよくからかっていたアトムに、昔の話をしたら
「(やってくる支援の)みんなをリラックスさせたくてなぁ」と言うのでありました。

アトムの子供ももう20才くらいでしょうか。
組織を離れても、何だかんだ、自分の生き方は変えないという奴らばかり。
どこかでつながっている大事な仲間。



1978.2.6二月要塞戦 | comments(9) | trackbacks(0)

31年目の事故

成田空港でついに死者が出る事故が起きてしまいました。
「フェデラルエクスプレス」の貨物便が着陸に失敗して炎上し、二人のパイロットがなくなったのだという。

日テレNEWS 12時台は
「国交省によると、事故直前に着陸した別の航空機の機長から「着陸の際、風向きが突然変わる突風が吹いていた」という報告があり、これは事故機の機長にも着陸4分前に伝わっていたという。事故当時、最大で風速18メートルの北西の風が吹いており、事故機は強い風にあおられた可能性がある。」と伝えています。

痛ましい事故ですが、ひょっとして航空の専門家たちは、この事態を内心で恐れていたのではないかと思えます。三里塚に風が吹いたときの凄まじさは、30年前に通っていた者達にも、実感としてあるのです。

事故の起きたA滑走路(4000m滑走路)は、南北に伸びる最大の滑走路。何度もこのブログで書いてきたように、31年前に成田空港が無理無体に開港したとき、ただ1本のこの滑走路だけでした。
そのころ、空港建設側から強調されていたのが横風用滑走路の必要性でした。

成田は、アクセス、燃料輸送、空域など、そこで暮らす人々の生活権や生存権を脅かす根本的な問題のほかにも、たくさんの課題を抱えてきました。しかし、本当にあの地域が地形や気象からして、問題はなかったのだろうか、という疑問が頭から去りません。

赤い土埃を巻き上げて、縦横に荒れる三里塚の風を知っているものに、「横風も縦風もあるもんか」と、実際、心配にもなったものです。今回の事故も、現段階の情報では、突然に風向きを変えた突風にあおられての事故のようです。
たとえ横風用滑走路があったとしても、この事故は起こったということになるでしょうか。

何度もいいますが、成田の建設計画はおそろしく杜撰です。
いつのまにか後景に退いた感のある横風用滑走路は、はじめから年に一桁台、それもかなり低いパーセンテージの使用予測でした。
そして、平行滑走路の建設を、またもや事業認定をご破算にするようなやり方で、角度や位置を変えてこれまた無理無体に建設を図ったのも、私の記憶ではアメリカ発「平行する滑走路が需要に応え、効率も良い」の要求だったと思います。
20年ほど昔、雑誌にこの論文が出たとき、私は瞬時に「成田の建設方針が変わる」と思いました。

どうにもこうにもならんいいかげんさを糊塗するばかりのやり方で、成田の安全はないがしろにされてきた、といっても間違いありません。

31年前の一瞬に、開港阻止・即廃港へと追い込めなかった自分達が、かえすがえすも残念でなりません。





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開港阻止 3・26へ (1)

1978年開港阻止決戦は、3月26日の現地集会から開港日となるはずの4月2日にかけての長期闘争として、多くの支援者には伝えられていました。むろん、1日目1発目で決めてしまうという計画を知っていたものもおりました。
機密保持はまぁ当然でありましょう。

三里塚闘争に連帯する会系の支援者の中で、党派部隊に属するものは、大方、前日の25日までには現地に入っていたはずです。地方にいる者は、24日に現地へ向けて出発する者が多かったのです。

24日、25日と見事な月夜でした。しかも24日はその月がきれいに欠けてしまう月食でした。「月夜に釜を抜かれる」というのはありますが、やってみせます!月夜にカマトンカチ! この月食のひとときを利用して、要塞へ最後のブツが搬入されたのでした。

要塞は、例のごとく「航空法違反」物件になる可能性がありました。実に不思議に間抜けに、機動隊は「6mの要塞に3mの塔が立てば高さ制限の9mを越える。ゆえに3m以上の建設資材は運び込ませない」ということでした。
でもね、つなぎゃいいんです。そんなものは。
というわけで、鉄塔を立ち上げる資材は、検問を潜り抜けて数日間のうちに運び込まれて、準備は整っておりました。

一方で、支援者がやってくる横掘の労農合宿所には、とてつもない物資が送られてきていたそうです。衣類、バス、トラック、冷蔵庫、医療品etc 全国から来る物資が山積みに。

大方のメンバーは片道キップのつもりでしたから、身辺整理をして、近親者があとで読むことになる、お手紙なんぞを残して現地へと向かったのでありました。

管制塔へ向かうプロ青の中川のおっさんは「無事に帰ってきてね」というテーブルの上の妻の手紙に、特別任務につく自分のことを何も語らず、ぼろぼろ涙をこぼしながら「ただ人民のみが歴史を動かすのです」と返事の置手紙。かぁ、俺も泣けるぜ。

同じく戦旗派の水野は、現地へ向かう車の中で、キャンディーズの最後の名曲「微笑返し」を「おしっこの仕返し、だって、わははは」と笑っていた。んなこと言ったって、自分がこれから長いところへの「お引越し」なんだよ。

さ、後楽園キャンディーズ解散の動員力と人気に負けてなるものか!
行くぞ、決戦の地、三里塚。
ヅカへ、ヅカへ、と草木もなびくよ〜 あらあらあらさっと
1978.3.26管制塔占拠 | comments(1) | trackbacks(0)

開港阻止 3・26へ (2)

25日、三々五々、現地へやってきた支援者は、それぞれの団結小屋に入っていきました。
インターは空港南側に位置する朝倉、プロ青、戦旗は横堀の小屋です。

まず、のんびりとした春の日でした。ぽかぽかしたいい陽気なのです。
朝倉小屋の草の上に多くの支援者が寝転んで草などはんでいるのでありました。
一方、横堀はまた空港反対派の挑発が始まろうとしていました。
午後1時、横堀要塞にまた鉄塔が立ち上げが開始され、夕方には完成してしまいます。

長さ3m鉄材の制限の陥穽におっこちた警備側には、頭に血が上った指揮官が出てきてくれたのでした。まことにありがたい話でした。
長い会議の末に「違法行為を看過すべきでない」という強硬論が「警備が空港と二分され
る。いまは要塞に手を出すべきでない」という冷静な判断を押し切ってしまったというのです。

朝倉では部隊編成が行われます。小隊、中隊、大隊。そして0部隊。
このゼロがなにしろ怪しいよ〜。
たぶん、その部隊がいくつかに分けられて、特別任務隊になったのだと思います。
管制塔と9ゲートトラック突入部隊は、ここにいたわけです。

あららら、やばっ
前田が出てきちゃったもんね。
「みなさん、死んで頂きましょう、というやつです」
(ばかやろ!)
その数15人。日が落ちてから「共謀」が行われました。

そのとき、初めて翌26日の全体の計画が現場メンバーに明かされました。
空港に突入し、管制塔を占拠する戦術は、指導部のごく一部しか最後まで知らなかったはずです。ヘイタイさんで知っていたのは、この時の「共謀」のメンバーくらいではないでしょうか。
たとえば戦旗の3人は、横堀の熱田さん家のマデヤ(作業場兼ものおき小屋)の軒先で、前田から説明を受けるまで、内容をまったく知らされていなかったと記憶します。

地下足袋姿の私達は、首に安全靴をぶら下げ、許される範囲の「あらゆる武器」を抱え込んで、月光のもと熱田さん宅から畑の中を駆け抜け田のあぜに伏せて、ようやく所定のマンホール突起口というやつに取り付いたのでした。
この時点でインター15、プロ青4、戦旗3、計22名。
ささ、南ベトナム民族解放戦線、アメリカ大使館占拠部隊のアナロジーでありました。

でも、そうはうまくいかんのです。
7ゲートを警備していた機動隊のサーチライトがくるくる回る合間を縫って、人とブツがマンホール内へ入っていたのです。そのライトは、月夜に動く影を捉えて、ぴたりと突起口を照らして動かなくなることしばしばという状態に陥りました。

ついに機動隊がやってきて、半身を突起口に入れていたS君が追いつかれて逮捕、中に入っていたのが15人。後は一目散に遁走し、田んぼの水にどろどろになりながら、逃げのびたのでした。

これより管制塔組は、空港内の出口近くまで進み、真っ暗闇の中、入ってくるかもしれない機動隊を警戒しながら、翌日の突入時刻を待つことになりました。
正直言えば、この時間がいちばんきつい経験でした。
私は、「直ちに突入すべき」と隊長・前田に進言すべきかとも思いました。
出口を機動隊が察知して押さえる前に、出て勝負すべきではないかと。

そう主張しなったのは私に勇気がなかったとも言えますが、前田の判断に従うのが最善だとも思ったのです。実際、彼の判断が正しかったのです。
前田は「撤退する道はない。予定通りの時刻に予定通りの場所から出て、管制塔を目指す」と、まったくブレがありませんでした。

連絡に使用するはずだった無線機をハンマーで破壊し、私たちは退路を絶ち、自らを闇の中の「突撃の意志の塊」に追い込んでおりました。
そのころ、外の無線は「予定通り決行!」と流しつづけていたそうです。

remol
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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (1)

みなさま、「3・26」でございます。
いい宵ですね。
春宵一刻、値千金
春雷一撃、開港阻止

3月26日朝、外はきれいに晴れ上がっていたのですね。
管制塔占拠部隊はまだ暗黒の中。部隊を組みなおします。
当初予定した22人が15人にメンバーが減っていました。確かこれを5人ずつの3グループに分けたはずです。

持ちこんだ武器は整理されました。とにかく身軽にして、一気にマンホールから飛び出して勝負できるならしようということでした。
入り口で忍び入るのを見られている以上、出口では機動隊が待ち構えている可能性が高いと考えたのです。

鉄パイプ、大ハンマー、そして触発性の火炎瓶。あとはすべてマンホールの中に置き去っていくか、排水溝の口から小見川へ捨て去ったはずです(置いていてもよさそうなもんですが、そうもいかないものもあったのです)。

「いくぞ!」の声の直前。まだ、党派が違う人間はよく知らない間柄ですから、それぞれの党派で声をかけていました。
プロ青が凄い。
「死んでもお互い、恨みっこなしだぜ」
津田のセリフであったそうです。津田は夜にひどく目が見えづらかったのだそうで、このマンホールへ至る間に田んぼに落っこちて、おろおろするのを中川のおっさん達に「お前、帰れ!」「いや、連れていってくれ。頼むから」と、やってきていたのでした。

15人は一列になって、マンホール内の小さな鉤型の手かがりを伝って数メートルを登り、丸い、横に伸びる側溝に這いこみます。ここにきてようやく数時間ぶりにうすぼんやりとした明かりを見ることができました。
後ろからブツが送られ、それを出口になる集水口の向こうに伸びる側溝へ押し込み、最初に飛び出す先頭の藤田がその集水口の真下に位置しました。

時計を見て、飛び出す時間を量る。‥‥‥しかし、不思議なことがあります。このとき、二番目に位置した平田は、後方から前方へ頭上を通りすぎていく人の話し声を聞いているというのですが、藤田にはその記憶がないといいます。

午後1時、藤田はバールで集水口の碁盤になった鉄の蓋を抉じ開けようとします。
うまくいきませんでした。やがて彼はヘルメットを脱ぐと、慎重にバランスをとっておでこと両腕で一気に持ち上げたのでした。
すぐさま飛び出した藤田は「牧歌的な状況」に驚いた。空にはひばり、出口すぐそばにある信号機のカチカチという機械音を聞いていました。
二番目の平田はその声、音を聞いていないといいます。本当に人間がある状況の中で、認識するもの記憶するものというのは、個人差があって不思議なものです。

5人が飛び出してから、前田がブツを下から必死に上に持ち上げて、先の5人に渡しました。こういうところをきちっと自らやるところが前田なんですよ。
次々とメンバーが出てきていたのですが、途中で制服の警察官が小走りにこちらへやってきました。
震えながら、銃を構えて。

仲間が出てくるまで5、6mの距離で対峙しながら、先に出たメンバーは時間を稼いでいました。前田は出てくる人数を数えていたといいます。
管制塔組は半円に囲む警官を一気に蹴散らして突っ走りました。と、いってもどの方向か事前にシュミレーションしていた前田以外、他のメンバーは全然分かりませんから、「こっちだ!」の声に従うほかになかったのですが。
最後の中路はまだ体半分しか地上に出ていませんでした。
ただ、制服警官は、管制塔組が走り始めたとたんに「い、いかん!」と絶叫したのです。
そう、俺たちが向かうのは管制塔。

行く手に煙が上がっているのが見えました。
管制塔が建つ管理棟敷地に入ったとき、突っ走る15人の目の前に、異様なものがぬっと立ち上がりあがりました。消火液をかけられ真っ白になった人でした。
1時きっかりに、9ゲートから突入したトラック部隊のメンバーです。
トラックに積んであったガソリンに引火し、それが燃え移って全身を焼いた仲間です。
消火液をかけていた警官は、消火器を放り捨てて、管理棟へと本当に脱兎のごとく逃げました。
真っ白になった9ゲート部隊のメンバーも、管制塔組の後を追ってまた走り、管理棟の中で逮捕されたといいます。

管理棟1階に管制塔組が走りこんだとき、警備本部は解体したようです。
9ゲートからトラック2台で突っ込こまれ、慌てふためいた警備本部がやや持ちなおして、ふと心理的な空白ができていたのではないかと思います。
そこへ2撃目が加えられました。
その瞬間に警備本部のえらいさんたちは、蜘蛛の子を散らすように現場から逃亡したのでした。管制塔組が突入した管理棟1階の真上、2階の空港署に警備本部が置かれていたからです。

1階ロビーで5人が警察官と対峙して頑張る間に、10人がエレベータに乗りこみ、上へと向かいました。
こうして、管制塔占拠が開始されていったのでした。

remol




1978.3.26管制塔占拠 | comments(4) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (2)

3・26闘争は「空港・突入・占拠」と、前年の夏から合言葉にしてきた方針の具体的な実践でした。
このスローガン自体、はじめは「空港・占拠」だったと思います。いつのまにやら、戦闘意欲にあふれすぎている活動家達が「突入」をくっつけてしまったものだったと記憶します。

この日、大まかにいえば、空港に対して3ヵ所から突入し、管制塔を占拠して機器を破壊、開港を不可能にする、という戦術です。
おバカさんの警備陣は、2月要塞戦で翻弄されたために、またもや横堀要塞に鉄塔が立ち上がり、赤い旗やら「いまぞ起て、減反に苦しむ百姓も大義を樹てる春がきた!」なんていうカッコいいコピーの横断幕でが飾られたために、頭に血が上って、精鋭部隊を派遣してしまっていました。
こんな思惑以上の好条件のもと、空港周囲での遊撃戦も行われ、相手戦力を分断して、突入・占拠戦が行われることになったのです。

この日の闘いの構造は、やはりプランナーだった和多田に語ってもらうのが一番。

*3・26当日の部隊配置*(『1978・3・26 NARITA』)
 私は、「空港包囲・突入・占拠」の戦術的な指導をおこなったわけですが、その第一が、菱田小学校跡地から出発して丹波山を通り第8ゲートにむかう大衆部隊。第二に、それとは別に、午後1時に第9ゲートを突破して空港管理ビルにむかう、トラック2台の陽動部隊。これは、管理ビル周辺にまだ残っている機動隊を外におびき出し、管理ビルの近くをぐるぐる回りながら火炎瓶を投げたりして、トラックに引きつけるという役割でした。
 このふたつの作戦を展開しながら、地下からの部隊が午後1時に地上に飛び出して、管制塔への突入、占拠をめざす、ということになっていました。

 当日は午前9時から、菱田小学校跡地で闘争の前段集会が開始されました。1000人〜1500人規模の集会でした。なぜ、そこで全体集会を持ったかというと、空港中枢の管理ビルにむけて部隊を出発させるためには、第3ゲートに近い三里塚第一公園で開かれる集会からではルート的に遠すぎるということ、また、そこからでは、警備側主力部隊の阻止線を突破することは無理と考えたからです。そういうことで、菱田小学校跡地で集会をおこなって、8ゲート部隊はそこから直接空港へ突入していくという作戦でした。

 その前夜には、管制塔を襲撃する部隊を送り出しました。深夜、下水道のマンホールから潜入し、当日午後1時ちょうどに、管理ビルから直線距離にして100メートルくらい離れたところの集水口から出て、管制塔を襲撃する部隊は、22名による編成でした。この作戦を可能にするためには、管理ビル周辺の警備が手薄になった無防備な空白状況をつくらないかぎり、突入は難しいと考えて、そこからすべての作戦を立てたわけです。

*陽動作戦* 
 警備状況については、すべてわかってました。彼らの警備の最重点は3・30開港当日だったので、3月26日の三里塚集会は、反対派にとっては大きな集会ではあるけれども、それは簡単に封じこめられる、と。散発的なゲリラは3月30日の開港当日にかけて、周辺でおこなわれるだろうが、これも個別に対応すればよい、と考えていたようです。
 それで私たちは、この年の2月に要塞戦があった横堀に、もう一度、要塞を修復して鉄塔を建てれば、警備側は必ずその撤去のためにやって来るだろうという予測を立てました。
 
 3・26の前日、ある新聞記者から、千葉県警上層部のなかで開港までの警備方針について意見のちがいが出ている、と聞きました。それによると、県警本部は「横堀要塞に鉄塔が建てられたならば、その撤去をふくめて、そこに主力を投入すべきだ」と主張し、三井脩参事官を中心とする警備本部は「三里塚第一公園の集会を封じこめることに全力を投入すべき」という意見にわかれている、と。これを聞いて、しめたと思いましたね。それで、鉄塔を建てれば必ず来るという予測のもとに、25日の夜、横堀要塞に鉄塔を建てました。(『1978・3・26 NARITA』より)

remol





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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (3)

世の中の展開はなかなかに早うございます。
激しく三里塚闘争が行われていた頃、無内容にただ元気よく「♪さらば涙といおう」とTVで歌っていた剣道少年が千葉県の知事になってしまいました。
ずっと続くタレント知事とその活躍を忖度いたしますに、「知事なんてものは誰がなってもお仕事できるのね」と思ってしまうのでありますが。

森田氏は成田については「羽田・成田をつなぐリニアモーターカー」が政策らしい。
このままでは羽田拡張によって、成田が沈んでしまうという危機感は、千葉県側はそうとうに深いようです。
しかし、極東アジアのハブ空港という展望からいえば、私の目にはすっかり決着がついているように見えます。成田のあの規模による役割、これからぶつかる課題からみれば、東アジアのハブ空港は、およそ望むべくもない。羽田でさえその役割を果たすことはもう無理なのではと、思います。
東アジアに冠たる国際空港の建設は、成田が足を引っ張り続けてこの体たらくというのがこの問題の正しい見方。成田が羽田に取って代われるわけがなく、羽田もその役割では「危ないど」ということでしょう。
日本の指導者は、国際的な視点も先を見る目もなく、アホやったということですね。

かつて激しく反対運動を展開した住民の中に「空港との共存」を自分たちの未来としてい選び取った人がたくさんいます。その人々もこれから、この問題でまた翻弄されたり切り捨てられたりする状況が生まれてくるのではないでしょうか。
遠い昔のお話をしているのも、ただ世の流れに取り残されているばかりのようでいながら、実は原因や結果が連なり、またその結果が原因になりということを思い返すに、「あのとき」が今にどう生きるのか、考えてみるのもけっして無駄ではありますまい。

決まったことをただ官僚的に進めることしかない成田空港は、そのために問題を大きくし、また次の困難を生み出していきます。糊塗とごまかし、が成田の歴史です。それを無理やりにやろうとするから、恐ろしく暴力的なありさまになってしまいます。
私たちの実力闘争は、時と場所をわきまえた、「激しいけれど最低限のお仕事」というのが私の印象です。
なのになぜ、一連の闘争があれほど波及力をもったのか? 
そこを本気になって考えて見なければなりません。
(反対運動をむやみに無内容に戦闘的な装いで強調するあり方も、支援に向かった新左翼は根強くもっていましたが)

当日、空港に突入した者たちはまなじりをけっしておりましたが、いっぽうでどこか「あ、こりゃこりゃ」の感覚もまたあったのです。
管制塔を占拠した部隊は「殺すな」「人質をとるな」という規律が課せられていました。
高いところでの勝負になったとき、ひとつ間違えば人死にが出る、というのはありえる話でした。
頭にかっとくる場面でも、冷静に事態に対処すること。少なくとも管制塔組は、意外に落ち着いていたとはいえると思います。

好きな話があります。
排水溝から這い出して、(鉄パイプより格段に破壊力の大きい)ハンマーをもった児島が、「俺は人を殺してしまうのだろうか?」と思ったというのです。
もうひとつおかしいのは、たぶん管理棟7階でエレベータを降りたとき、また児島はキャーを悲鳴を上げた女性の職員を見て「何か悪いことをしているのかな? 世間ではこういうのを犯罪というんだ」と、妙な自覚をしたというのであります。
やっているほうと、びっくらこいたほうの意識の落差。当たり前でありますが、けっこうおかしい話です。
驚かせたのは申し訳ない話ですが、時と場所を選んで、それも自分のカラダで責任を取るつもりでいたのですから、許してくださいね。

一方で、管制塔事件の後、劇作家のつかこうへいが1階のカメラに残された映像を指して「革命なんていうのなら、真っ先にそれを壊さんかい!」と、ありがたい悪態をついていました。
雑誌記事のそれを読んで私は笑い転げました。
きっと演劇的にあの闘争が行われた、といいたかったのかもしれませんが、あの闘争が革命につながるなんぞ、やったやつの誰が思っていただろうか。そこにカメラがあったことを1階に残った連中の誰が知っていただろう。

我らの気質と、それを遠くから見るものによる平和的気質のお門違い。
でも、人間としてみるなら、どこかでつながるリアリティ。
官僚的で暴力的に進む事態に、おろかしくてもお笑いでも、あくまで人間として立ち向かうこと。
私たちにはこれしかなく、そしてそれが最大の武器です。
一見、弱く見えて、これがいちばん強い。

誤解をないまぜにしながら、それでも広がっていく共感の波のようなものが運動や闘争を支えるものだと思うのであります。
共感の波は、ある時点でとてつもない大渦をつくってしまうものです。
そこには頑強に、粘り強く、しなやかに働き続けている人間が、かならずいるものです。

remol

1978.3.26管制塔占拠 | comments(2) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (4)

管理棟1階に残ってエレベータ前に対峙線を張った5人は、なかなかの奮闘でした。
警備本部が解体しているのだから、制服のおまわりさん達もどこかへ逃げればいいにと思いますが、彼らの中にも責任感の強い人たちがいたようです。

恐らく、管制塔組が排水溝から出たとき、拳銃を抜きながらやってきた警官もその中にいたでしょう。たぶん、彼らが午後1時に平田が排水溝の中で聞いた、頭上を通りすぎていった声の主だと思います。通りすぎていった方向からやってきたのですから。
ただし、あののんびりした調子から察するに、9ゲートからのトラック2台とは、管理棟前では遭遇していないはずです。もし、管理棟前にいたら、排水溝のほうへは来ていないのではないでしょうか。

9ゲート組は、パトカーを追尾しながら、拳銃で撃たれつつ空港へ突入したといいます。土門や児島の兄などは、撃たれるたびに首をすくめながらパトカーの後を追走したそうです。「いきなり」の出現には警官、機動隊もまず逃げます。三里塚のようなところならなおさらです。それに、短銃というやつも距離があったり、的が動いていたりしたら、まず当たりません。

最初の一撃で恐慌をきたした警備陣は、統制なんて望むべくもありませんでした。
管制塔組が警官に発見されて、ブツを手に手にもとうとしていたとき、その警官の背後50mくらいのところに機動隊が右から左へと現れ、その中の何人かはこちらの様子に気づいて、あきらかにとまどったそぶりをみせました。
しかし、来なかったのです。命令を受けている人達、部隊で動いているものは、先を急いでいるようでした。混乱とはこうしたものです。

でも、もし彼らがやってきて警官の勢いがついたとしても、結果は同じだったでしょう。
またプロ青の津田あたりが拳銃の前に両手をおっ広げて「撃てるもんなら、撃ってみろ!」と叫んでいたに違いありません。
むろん、前田は彼をほっといて先を急がせていただくのでありましょう。

1階で、このお定まりのパフォーマンスが行われました。
焔ビンが投げられ、向こうからは消火器が飛んでき、えらい太い丸太でぶんなぐられたそうです。
パフォーマンスの主の津田は、身柄を確保されたのちに、ヘルメットに消火器を叩きつけられ、はめられた手錠で引きづり回されて、手首を骨折します。
1階組はぞんぶんにやられたわけです。

エレベータに乗った10人は、一気に7階(たぶん)へと上りました。先に上がった前田組5人はおそらくここから階段を駆け上があっているはずです。
管理棟は7階建て。そのそこからタワーが聳えているのでした。

中川ら後発組はうまくエレベータを乗り換えて、前田組を追い越して13階へと至ります。
まだ、壁塗りの職人さんが仕事をしておられました。
ほらほら拙速で開港しようなんてするから、まだできてないじゃん。
職人さんは、そこに自らがいないかのように、ただ壁を向いて突っ立っていました。
立ったまま、いて、いない。ほかにやりようがないのです。
その背後を赤ヘルの5人が疾駆して、階段を駆け上ったのです。

13階より上は行けませんでした。14階は堅くどのドアも締まり、階段を上れません。
ただ、あとで分かったのですが、14階の一室の機械が、洋上管制のためのマイクロ通信施設でした。
ぼんやりやってきた中路が、ハンマーでぶったたきます。
たぶん、これで壊れていたはずです。
中川のおっさんは、やらずもがな、中路が立ち去ったあとにやってきて、焔ビンを放りこみます。真っ黒、煙ばっかり。

煙でむせているところへ、遅れた前田達が足音高く駆け上がってきました。
赤ヘルでよかったです。先の5人は「機動隊が来た」と思いました。
下手すりゃ、機動隊と間違えて、焔ビンをお見舞いするところでした。

remol


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