横堀要塞の建設は、その役割と闘いのイメージのもとになる経験がありました。どんな闘いでもそうなのでしょうが、先立つ闘いの財産や教訓が引き継がれているものです。
開港阻止決戦まで、当時の第四インターの三里塚闘争の方針を立案していた一人、柘植洋三は次のように語っています。
*壮絶な2月決戦*(『1978・3・26 NARITA』)
柘植●まず、前史として、三里塚闘争と第四インターとの関わりについて簡単にふれておきます。
インターの三里塚現闘団ができたのは1969年末のこと。Hが中心となり、Tが派遣されて、結成に至りました。当時、インターにおいて、拠点の闘いといえるのは砂川闘争だけでした。砂川闘争は、酒井与七(第四インターの理論的指導者。「山本統敏」名で活動)が「極東解放革命の最大拠点」として位置づけたこともあり、党派機関紙である『世界革命』にたびたび取り上げられていた闘いです。そのため、三里塚に入ったHやTは、砂川の塹壕闘争のイメージを強烈に意識し、実際にかの地でそのような闘いを展開することになります。
当時の「三里塚反対同盟」はとても大きな組織で、その中で作戦参謀として活躍していたのが、Yさんのお父さんと岩沢吉井さん(現闘の若者たちから「岩沢のじいさん」と慕われた反対同盟の老闘士。2002年に92歳で亡くなった)でした。第四インターが立てた「塹壕にたてこもって強制収用に対抗する」作戦は、この2人を通し、反対同盟の方針として確立されていきました。
横堀要塞が建設されるまでには、いくつかの紆余曲折がありました。
反対同盟の建設決断について、一部の記録に、「熱田一さんが風邪をひいたために遅れた」といった書かれ方がされていますが、これは事実と異なる……というかぼかしています。熱田さんには当時、多くの党派からの引き合いがあり、簡単に決断できない状態にあった。その迷っているところに岩沢さんがやってきて「ここで旗を上げなければ開港阻止闘争はどうなるんだ」と詰め寄り、ついに決意する――これが真実です。
そしてやっと、横堀団結小屋付近に要塞をつくる作業が始まるのですが、その直後、朝日新聞に図面が流失して、それが記事になってしまう。これを見た権力側は、収用用地内に永久建造物がつくらせまいと、収用法の適用を前提に、工事妨害の準備を始めた。そこで建設予定地をSさんの畑に移動することになったのです
。(『1978・3・26 NARITA』より転載)
「塹壕にたてこもって強制収用に対抗する」作戦とは、71年強制代執行に対する抵抗闘争の基軸になった方針で、穴掘り中に「この穴はベトナムに通じる」という、名コピーの殺し文句を産んだ闘いの方法でした。
柘植さんの話に出てくるHは
「岩山部落の岩沢のじいさんから『塹壕建設』についてインターに『できるか、やれるか?』と打診があった。反対同盟は各部落単位で塹壕や砦を作って抵抗する方針だった。その具体的方針は各部落ごと。他の部落のイメージは主に自然地形を利用した砦建設。岩沢さんは砦ではなく、長期に耐えられる強さを持った地下要塞のイメージだった」と、言います。
実は、じいさんは戦時中に横須賀の猿島砲台に砲兵としていて、その経験が大きかったのです。行ってみれば分かりますが、猿島は隧道、切り通し、を駆使して地下要塞化が図られていた砲台でした。じいさんは自ら穴掘り、塹壕掘り、そして穴の中で暮らしては、敵機がくれば砲に駆け上がり、撃ちっ放していた人だったのです。
いずれまたじいさんが果たした役割については、機会があればここに書くつもりです。
とにかく、あの要塞は、帝国海軍の要塞砲台→砂川闘争→71年代執行といった経験からくるイメージで、つくられていったのでしょう。
横堀に要塞をつくるという反対同盟の決断の様子を、じいさんは次のように語っていました。
★横堀要塞建設の決断
横堀要塞をつくるのにどうするのかと。2,500(mの平行滑走路)の先端でやろうか、もしくは3,200の横風用でやろうかと。で、オメらの方の小屋(インター横堀団結小屋)を使おうとなった。あれは熱田さんの名義にしてあるから熱田さんを何とかしなくちゃならない。今度は熱田さんは区長だということでしょう。で、くどきに行った。
さんざんくどいたら「よかっぺや」と。で、よかっぺじゃ困るんだと。いいならいい、悪いなら悪いときちんと決めてくれと。あとのことはあとのことでそれなりに考えるからと。とにかく基本になるのはそこから出発しなければ……お前は何のために軍隊で歩兵の下士官(班長)をやってたんだと大声でいってきた。こうなるとおれのいい方がちょっとやくざめいてきちゃうんだよな。
で、熱田さんが、「使ってもらうべや」と。
じゃ、そのように話を進めていくぞと。ただ、(この段階では)重大な闘争の場所として使うよ、としかいってなくて、鉄塔を建てるとかはいわなかった。
で、計画進めて図面つくって持って行って説明した。「これは熱田君、工事をやって成功して、引き渡しを受けた時点で同盟のものとして運動に使うから」と。
(後日) 「つくりたい」というのがこの間のあんたの応えだから計画を立てて図面をつくってあんたに見せた。で、このことの責任者をあんたにやってもらいたいからと。
図面はオメらの小屋のどっかでつくったんだよ。おれがやること関するはみんなオメらがひっかかってんだ。それで初めて仕事になってオメらがブロック、戸村選挙でやった横堀のグループがかたまって闘いが組めたんだから。中核は中心に入ってないはずだ。
それで、今度は熱田さんに、「これで責任はあんたに移ったんだよ。これからあることはあんたの指揮監督に任せるよ。しかし相談相手には私なりますよ」と。
じいさんはなかなか怖い人であったのであります。
ええ、それでも私にはやさしかったのですよ。惚れちゃってたもんね。