★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
<< December 2008 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

★実力攻撃が必要だったわけ

 ブログを読んでくださるみなみな様には、経験をともにした方も多いかと存じます。
 きっとお顔を存じ上げている方もいらっしゃるでしょう。
 ご挨拶かたがた、歌などひとつ歌うことにいたします。

 ♪はいけい、ごぶさたしましたが、
  ぼくもますます元気です。
  5・8(ゴッパチ)以来、きょうまでの
  赤いメットのタマのあと
  見せてあげたや、おっ母さん
    タカ・タッタッタ〜
 
 はい、原曲は『上海便り』というけしからん歌であります。メロディーはおじさん、おばさん世代ならすぐ口から出てくる、
 ♪親ガメの背中に子ガメを乗せて、子ガメの背中に孫ガメ乗せて〜、
のアレです。

 3・26闘争(管制塔占拠)は一日にしてならず、です。
 思えば、三里塚闘争の現場で、鉄パイプとジュラルミンの盾の戦乱的攻防戦が闘われたは、その一年前からのことでした。これは、それまで飛行機の離着陸を阻んでいた岩山部落の鉄塔二基が、抜き打ちで5月6日に倒されたことに対する反撃戦として行われたものでした。
 もともと開港阻止の闘いは、岩山大鉄塔の防衛戦から始まると考えられていたのです。

 権力は「肩透かし」のつもりだったでしょう。
裁判所が撤去の仮処分決定を不意打ちで出し、夜陰に乗じて機動隊が周囲をかため、抵抗らしい抵抗ができぬようにしたうえで鉄塔を倒したのです。
 理屈はつきます。「反対派の抵抗による混乱、怪我人を避ける」という慈愛に満ちた配慮です。しかし、裁判官さま、公安のみなさま、警察のご同輩、そんなナマ言っちゃいけません。
 反対同盟のじいさんから子どもまで、そんな甘ちゃんではないのです。「あなたがたがそのように育ててくれたではありませんか」と私どもは感じたのでありました。

 かくして、部隊と部隊がぶつかり、石や火炎瓶が乱れ飛びました。1971年の強制収用をめぐる一連の闘い以来、6年ぶりのことだったといっていいと思います。
 このとき、5月8日の空港第5ゲート前で行われた戦闘がもっとも激しいものでした。この過程で坂志岡団結小屋の常駐者、東山薫さんが機動隊員にガス銃で殺されました。

 この日、機動隊が使用したガス銃から撃ち出されたのは、催涙弾だけではありません。機関銃弾のような流線型の強化樹脂製のタマが大量に撃ち込まれたのです。
 催涙弾はそれ自体、化学兵器のようなもので許しがたい治安武器です。しかし撃ち出されてからの軌跡も見えるし、避けることもまぁ可能でした。
 プラスチックの模擬弾はそうはいかない。見えないし、ダメージが大きい。直撃を受けて重傷を負うものが続出しました。東山さんは野戦病院という医療現場にいてノンヘルでした。彼の頭蓋を機動隊は至近から狙って撃ち砕いたのでした。

 空港反対派はこうしてまたむごい犠牲を引き受けました。
 そしてまた、ひきかえに5・8闘争は、現地の闘いの「スタンダード」を手に入れたといえます。その後に向かう意識や闘いの方法を決定付けたのです。政府の側が暴力的に、あるいは詐欺的にことを行おうすることに、その企図を頓挫させる可能性を、現実的に垣間見せてしまったのですから。

 鍵は大衆の結集した力、実力による反撃にありました。その闘いを支える共感のうねりを現地・三里塚へ向かって作り出し、陣形を作り上げることでした。
 陰惨なテロではなく、爆弾のような支持なき先鋭でもなく、一人ひとりが自分の責任で闘いに参加し、自分の意志と身体をそこに賭ける、過激にして愛嬌ある本質的にラジカルな闘いの方法でした。

 3・26闘争を紹介する読み物、紹介文はたくさんあります。第4インター、プロ青同、戦旗派の三派によるゲリラで管制塔占拠という内容です。ある部分は正しい。けれど、はっきり言えばこの内容だけで捉えるのは誤りだと思います。
 ブログの一番最初に掲げたとおり、この勝利は「全人民がともに手を取り合って喜ぶ勝利」であり、少しだけ誇りを込めて言わせてもらうなら、それにふさわしい内容をもった過程を通して準備され、実現されたものでした。
 管制塔に登った連中も、空港内に突入した者たちも、また空港周辺で闘った人たちも、実は、その内実の先端に自分の身を置こうとした、ただそれだけのことでした。

 ♪隣の小屋の戦友は、
  えらい元気な奴でした。
  きのうも敵の放水車、
  進みのっとりまたがって
  コックローチ退治と高笑い
   タカ・タッタッタ〜

 ♪あいつがやれば、ぼくもやる
  みてろ、こんどの決戦に
  タワーをひとつぶんどって
  テレビニュースで見せるから
  まっててください、おっ母さん
   タカ・タッタッタ〜

(注・むろん替え歌の「おっ母さん」とは、第一に反対同盟のおっ母さん達のことであります)
 
remol
1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議 | comments(0) | trackbacks(0)

★3・26菱田小跡地の「異様な雰囲気、異様な熱気」

 開港阻止の闘いは、前回のブログで少し触れたとおり、76年の秋くらいから反対派の方からも準備されていったものです。もちろん、すべてがシナリオ通りにうまくいったわけではありません。
 生きた闘いの現場はさまざまに矛盾を含み、一つ一つの攻防の成功や失敗で、その後の展開が変わっていくものでした。このブログでもおいおい、その過程を追ってみるつもりです。

 今回は、3・26当日の「空気」に触れてみます。それは菱田小学校跡地に結集した部隊の人たちに表現されたもので、開港阻止に向かう「空気」がいかにして醸し出されたかを知ってもらいたいからです。(管制塔占拠部隊はすでに前夜のうちにマンホールに潜り、空港敷地内に入っておりました)。

 菱田小学校に集まった人々による集会は「分裂集会」と非難を浴びかねないものでした。反対同盟主催の集会は、成田市三里塚の交差点近くにある三里塚第一公園で開催されていたからです。
 誰が身をかけて闘かおうとしているのか、そのためにどちらの集会へ行くのかというのは、実はそれほど難しい問いではありませんでした。ほぼ一年半ばかりの現地での攻防で、かなり明瞭になっていました。
 もちろん第一公園へ結集した人々を非難しているのではありません。党派部隊がどの程度、有能だったか準備されていたかという問題はあるにしろ、そちらの集会へ行った人々も、当日、反対同盟の呼びかけに応えて、闘いに参加したことに間違いはないのですから。

 当日、実力で開港を阻止しようとした人々が醸し出した「空気」について書く前に、その前日の25日の「空気」も少し引用しておきます。両方を知らないと見えなくなるものがありそうです。

*決戦前夜*(『管制塔 ただいま、占拠中』柘植書房刊)
 三里塚はうららかな春の日差しに包まれていた。二五日の昼ごろまでには、のちの管制塔占拠メンバー全員が現地入りしていた。
 インター三里塚現闘団のある朝倉団結小屋前は、とにかくのんびりした雰囲気に包まれていた。次々に到着する仲間は、てんでに草の上に寝転び、談笑している。全国結集の時だけ顔を合わせる者同士、「よお、来たな」という感じで声をかけあっている。(略)
 
 朝倉はそろそろ全国から五〇〇人がそろっていただろうか。緊張感がないから、何だか運動会かピクニックのようだ。今さら緊張してもはじまらない。
 児島純二は兄貴と並んで草の上に腹ばいになっていた。児島S、純二、そして平田は同じ宮崎県の高校の出身である。Sはいつもの眠そうな目をして、レモンをかじっている。
 翌日、児島と平田は連れ立って管制塔に登り、兄のSは第9ゲートからトラックで命がけの突入を果たすことになる。

 時おり、マイクの声がして歓声があがるが、すぐにまたのんびりムードに戻る。横堀要塞では再び鉄塔が建ち上がり、一足早く戦端が切られようとしているというのだ(『管制塔 ただいま、占拠中』より)

 実際、やる気のある連中は、実は、おおらかにしてほがらかなものです。「俺達だけが闘うんだぁ」と過度に力瘤を入れたがる連中は、たいがいは見かけ倒し、こけおどしです。キャンキャン騒ぐことで闘う気分を表現しようとする人々は、おおむね自分の恐怖を押し隠しているにすぎません。

 で、これが翌日の菱田小跡地ではどうなるか。
 常駐者=現闘員と管制塔部隊隊長・前田の対談から引用してみます。

*踊るラッセル車*(『1978・3・26 NARITA』)
 早野●2001年に「9・11テロ」があって、その秋にアフガン戦争、2003年3月20日にイラク戦争へといたる流れのなかで、日本でも久しぶりに反戦運動が盛りあがったとき、一度だけ5万人の集会が東京でおこなわれたんだよね。芝公園でやった「ワールド・ピース・ナウ」の集会。
 あのとき、どこにも属さない「なにかしたい!」っていう人たちが膨大に来ていたんだよね。デモのどこの隊列につくわけでもない。デモがはじまると、機動隊が制圧してるわけでもないから、みんな勝手にいろんな隊列のうしろにくっついて、手をつないで、ジョン・レノンを歌ったりして。
 これって、3・26前後の雰囲気に似ていると思ったんだ。もちろん、もっと戦闘的なかたちではあったけれども。どこに所属するとかは、成田みたいな場合、来たら見物は無理なのよね。機動隊か、こっちかしかないので、組織を頼って出てきた人も、そうでない人も、「連帯する会」なんかその典型だけど、とにかく膨大な人が来るわけよ。異様な雰囲気、異様な熱気。
 その空間をとりまく雰囲気ということでいえば、エピソードがひとつあるよ。俺は当日、井の一番に、ラッセル車を先導して、菱田小学校の集会場まで連れて行ったわけだよ。先導者は、俺、たった一人。ある時点で、国道に出るわけだよ。そうすると、遠くのほうで、車が全部キーッて止まっちゃう。みんな車から降りて、遠くから俺らのこと、「なんだろ?」ってながめてんだよね。

 前田●うーん、それはおもしれーなぁ。どのくらいの距離だよ、菱田まで。
 早野●2キロ半か、3キロもなかったかな。で、みんな「なんだろー」って思うわけだよ。日曜日の朝っぱらからだよ。ふつう、闘争に関係ない人にとっては、優雅な日曜日なんだよ、天気がよくて。そろそろタケノコかぁ〜なんていうシーズンでさ、家族団欒、車で来ました、と。
 そしたらいきなり、自分が通る道路に装甲車みたいのが出てきました、と。その前に、タオルをかぶってるやつがいる。俺なんか、タオルしても意味ねえんだけどさ。もう、どこの誰って、どうやったってわかる顔と体型してるからさ。で、だぁれも近寄らない。あれはね、すんごい、こっちのほうが気持ち悪いぞ。それで、やっとこさ、菱田小学校につきました、と。そしたら、だれも驚かない。
 前田●集まってるみんなが、ね。
 早野●わかる? あれね、三里塚公園に登場したら、みんな「なにが来たんだ?」って驚いたと思う。ところが、菱田に登場した瞬間、ワァーッ、なんだよ。大歓声があがるんだよ。
 前田●あぁ、わかる。「やるんだ」という気分ね。

 早野●全体がそういう気分をもってる。それは、アジテーションで「行くぞ〜!」って盛りあがってるわけじゃない。ラッセル車を見ても、自分の高揚の一部分として、ただ素直に受け入れるわけ。それはね、通常の闘争で、「今日はやるよ」っていうのとは一段階ちがう。
 あそこに主催者発表3000人とか、実際は1500人とするよ。それが全員が逮捕される覚悟。反対同盟の戸村一作さんとか、Hさんとか、Mさんとか、ほかの人たちも、そういう意味では捕まることになんの躊躇もない人だったから。「もう今日は全員が捕まるぞ」っていう気分を持っている何千人の集団っていうのは、それはものすごく異様で、そして巨大な力を感じるものがあるんだよ。そういうものは、それまでの1年間をかけてつくられてきたわけだけどね。
 前田●僕が異様だと思ったのは、管制塔に登って下を見てたら、手ふりながらガァーッと突っこんでくるわけよ、8ゲート突入部隊が。管制塔占拠したんだからさぁ〜、もう終わったわけじゃない。「もういいよ、帰れ!」って……。
 早野●思うよなぁ。俺も、そう思う。つまり、それは相乗効果もあるわけよ。前田たちが管制塔のてっぺんまで登って、今ごろはたぶん、機動隊にボコボコにされて、もう全身、複雑骨折で……、「アイツらが行ったんだから、俺らもつづかねば」となったんだと思うよ。(『1978・3・26 NARITA』より転載)

 (注・「ラッセル車」とは、トラックの前に大きな鉄板を楔形につけた改造車。8ゲートから突入した部隊の先導車として、警備陣が用意したバリケード・車止めを突破していった)

remol
1978.3.26空港突入 | comments(1) | trackbacks(0)

★真の「過激」のつくられ方

管制塔占拠闘争は、岩山大鉄塔の防衛に向けての準備から始まる一年半の攻防の集大成として、ありました。★3・26菱田小跡地の「異様な雰囲気、異様な熱気」で出てきた「全員が逮捕される覚悟。(略)、『もう今日は全員が捕まるぞ』っていう気分を持っている何千人の集団っていうのは、それはものすごく異様で、そして巨大な力を感じるものがあるんだよ。そういうものは、それまでの1年間をかけてつくられてきたわけだけどね」は、それを端的に表したものです。

 3・26当日の天を衝く闘争意欲の「気分」は、一つ一つの攻防を経て圧縮され、この日に、もう誰にも止められない爆発的なエネルギーの迸りとしてあったのです。
 その過程をおおざっぱに年表で見てみます。

・1976年 2月、産土参道土どめ破壊阻止闘争。
     5月、三里塚廃港要求宣言の会(前田俊彦さん代表)
     10月、「(岩山)鉄塔決戦勝利」全国総決起集会。
     12月、福田内閣発足。
・1977年 1月、福田首相、年頭会見で「年内開港を内政の最重要課題とする」と発言。
       岩山鉄塔破壊道路工事が再開、現地攻防続く。
     3月、千葉で「ジェット燃料貨車輸送反対」集会、
     4月17日、現地集会に最大の2万3千人結集
     5月6日、千葉地裁が鉄塔撤去の仮処分、即日、岩山鉄塔破壊
     5月8日、千代田農協前広場で抗議集会。
         「5・8」戦闘。機動隊のガス銃により東山薫さんが虐殺される。
     5月15日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ」中央集会。
     5月29日、「東山君虐殺糾弾」現地大集会。
     7月〜8月、ジャンボ飛行阻止闘争。三里塚と全国を結ぶ大行進、
     10月、 現地総決起集会。
     12月、横堀要塞の建設はじまる。
・1978年 2月6日、警察機動隊が横堀要塞への攻撃を開始、鉄塔攻防戦。
     3月1日、現地集会で反対同盟「3月開港阻止決戦突入」を宣言。
     3月26日、「包囲・突入・占拠」闘争。横堀要塞で第二次戦闘、
         開港延期を閣議決定(28日)。

 年表の冒頭を少し考えて見ます。
 空港建設の具体的な動きは常に「道路作り」からです。測量があり、資材輸送や(彼らの側からする)妨害物撤去のための道路が作られていきます。言葉を変えて言えば、周辺の地形が変わっていくことが、強行建設の始まりなのです。

 産土様は、古い歴史を持つ岩山部落(A滑走路=4000メートル滑走路の南側延長上の台地)の人々を見守ってきた神様です。政府は、ずっとこのようにして村を破壊してきました。このとき、71年の代執行以来、表立っては見えていなかった強権的な建設の動きが露になったのです。しかも、これは福田内閣が発足する前、でした。

 もう一つ、これも成田空港建設らしい話ですが、福田は当初、「年内開港」とぶち上げていました。無理強いにやればやるほど齟齬は重なり、まもなく「年度内開港」と言うようになります。政府は現地の様子も、農民の気持ち、抵抗の意欲、全国の支援者の力をまるでわかっていなかったということになります。

 この産土参道破壊阻止闘争は、しかし、その後から思えば牧歌的な雰囲気でした。もちろん、槍衾を組んで機動隊の盾をボコボコ突いたり、泥まみれになって泥団子合戦ごっこ的攻防戦をやっていたのです。かわいらしい前哨戦でした。そこから開港阻止実力闘争は始まっていったといえます。

 さて、後に管制塔占拠につながる闘いは、主として「三里塚闘争に連帯する会」という大衆運動団体に参加していたものたちによって担われたものでした。第四インター(第四インターナショナル日本支部)やプロ青同(プロレタリア青年同盟)は、それに当初から参加していた政治党派でした。
 この大衆団体は、74年の参議院選挙で、反対同盟の戸村一作委員長を押し立てて選挙運動した者たちのつながりで出来上がっていたものです。
 全国的な反対同盟支援の体制は、このような大衆的な運動の積み重ねでつくられていたのです。

 この財産の上に、一年余りの実力攻防戦で反対派は鍛えられていきました。
 もっとも重要なことは、三里塚闘争の特性です。何より、農民の過激な闘いに「学生さん」は学んだのです。
 そのリアリティは、実は年表からは汲み取れません。年表の行間に沈んでいる「進化のリアリティ」を以下から想像してみてください。

*肉体、精神、感情をつくる時代*(『1978・3・26 NARITA』)
早野●排水溝を使うっていうのは、『地下水道』っていう映画がヒントになってるんだけど、成田の排水溝っていうのは、非常に無防備なかたちで空港の外にたくさん飛び出していたわけよ。それが1978年の3・26を前にして、こちらがちょこちょことゲリラやるもんだから、どんどん塞がれちゃうんだけど。あそこには、俺らはけっこう何年も前から潜って調査をしていて、そのついでにピョロッと空港の敷地内に飛び出して、パパーンと火炎瓶投げて戻ってきたりしてた。そういうのもふくめて、いろんなちっちゃいゲリラをいっぱいやっていたわけよ。

 前田●そうそう。Tと失敗して帰ってきたこともあったしなぁ。
 早野●それで、怒られて、もう1回、行ったことがあったじゃん。「むこうの警備が固くて、できませんでした」って帰ってきたら、「バカヤロー、なにしに行ったんだ、お前ら!」って言われて、むこうがもっと警備を固めてるとこに行って、やってきたんだよな。1977年の5・7、5・8の鉄塔を倒されたときだよな。
 前田●あれは、演習としては最高でした。

 早野●あのへんから、俺ら、気合が入ってくるんだよ。もちろん、エンタープライズとか相模原とか、いろんな大衆闘争をやってるんだけど、それだって、せいぜいが竹竿で突っこむとかデモで機動隊の壁に正面からぶつかるとか。当時は、学生運動が過激だ過激だっていわれてても、鉄パイプまではいかないで、角材と石、これで機動隊に正面からあたっていって、捕まる。この捕まるというところが最も過激な闘争だった。それが、本当に実害を与えてくる、そして、自分たちがやったという勝利宣言をするようになるのは、前田たちの、あの「出直し」が大きな転機になってる。

 早野●学生運動としてはそれまでに、三池とか、60年安保とかいろいろあったけど、例えば60年安保にしても、樺美智子さんが亡くなったから、あたかも激しい闘争のように思われてるけど、やったことは本当に大衆の腕組みデモなんだよね。国会を包囲したけど、突入して占拠する、とかではない。
 日本の戦後における労働運動も、三池とか三里塚をのぞくと、本当の意味で実力大衆闘争ではない。自分の命をかけ、体を張って、死傷者を出し、というのは、むしろ住民闘争のほうがはるかにリアルで過激な闘争をしてきたわけ。

 新左翼はいかにも、新左翼運動が戦後の日本の政治・大衆運動を牽引してきたかのごとく総括しているけど、それは大嘘で、やっぱり生活をかけた生活防衛闘争のなかにこそ本当の実力闘争があったわけ。学生運動が過激だっていわれているのは、要するに爆弾闘争と内ゲバ、ただこの点においてのみ過激だっていわれてるだけで、本当の意味で大衆的実力闘争というものを新左翼も経験していくのは、やっぱり成田からなんだよね。

 68年からの成田闘争への参加、そして、第一次(71年2月22日)、第二次代執行(同年9月16日)、これらのなかで、新左翼運動が「本当の実力闘争とはなにか」を、農民から学んでいくんだよ。
 八街からはじまる千葉県に空港を作る計画が1963年から64年にかけて出てくるんだけど、そのころから反対運動を社会党と共産党は組織していくんだね。三里塚は、学生の甘っちょろい運動とちがって、明日の自分の生活を守るために体を張った闘争を色濃く体現していた。

 新左翼はそこに行って、はじめて大衆的実力闘争を経験し、反対同盟との接触によってはじめてリアルなものとして実感するようになる。新左翼運動は、第一次代執行、第二次代執行にいたる過程で、自分たちも穴ぐらに潜ったり、鉄塔にたてこもったり、火焔瓶をぶん投げて機動隊をやっつける、というようなところまで、反対同盟によって導かれるんだよ。
 そういう経験をした新左翼も、その後の集会やデモでは、東京で繰り返してるような、旗立てて、機動隊に竹竿突っついて、勝った、負けたっていう、カンパニア的な、自己陶酔的な、単なる自己証明のための闘争に戻っていってしまう。本当の意味で大衆的実力闘争を自分たちのものとして確立できなかったんだね。

 前田たちがあの日(77年5月)、それまでの一般的なゲリラ活動と同じく、火焔瓶を投げに行ってお茶濁して帰ってきたのを、「バカヤロー、もう1回行ってこい」って和多田さんに言われて本当にやりきってきたというのは、局地戦ではあるけれども、歴史的には非常に意味のある、第四インター的には精神的な闘争本能をつくる、大きな出来事だったんだよ。77年5月、5、6、7日あたりね。

 前田●そのころ、僕はなにをしてたかっていうと、部隊をつくって実戦訓練してた。たとえば、アウターマーカー(無線施設)っていう飛行機が滑走路に入る誘導施設があって、「そこをやってこい!」って言われたりする。ある日、突然、招集がくるんだよね。それで、某所に集まって、現地に行くと、すでにいろいろ用意されている。「案内するから行ってこい」っていわれるわけよ。まあ、こっちは、いい訓練だったよね。77年あたりは、そういう時期だったね。
 早野●そうなんだよ。いろんな戦闘に対して、肉体のみならず、感情、精神をつくる時代だったんだよね。一方には、単なる自己表現のための、存在証明のためのゲリラがあって……。
 前田●そう、僕らはちがうな、そんなんじゃないな。(『1978・3・26 NARITA』より)

remol


    
1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議 | comments(1) | trackbacks(0)

★真の「過激」のつくられ方 2

 三里塚闘争は、支援へ向かった初期の学生や労働者が、実力による生活防衛闘争を学ぶ場でした。そのなかで、開港阻止が日程に上り、約一年の実力攻防で、反対派がさらに鍛えられてきたと前回は書きました。
 岩山大鉄塔が闇討ちで破壊されて、その反撃の機こそが、後の開港阻止部隊にとってエポック・メイキングなできごとだったとも。

 既にこのときまでに、三里塚闘争は12年の歴史を持っていました。
 それがどのようなものだったのか。反対同盟にどのように刻み込まれていたのか、ひとつ例を挙げておきたいと思います。

 加瀬勉さんという人がいます。羽田に代わる国際空港があちこちに候補地を捜し、成田の隣の富里に決定しかかったときから、空港反対運動に関わってきた人です。社会党員で、日本農民運動のオルガナイザーでした。富里、三里塚と、誰よりも農民の運動を長く見てきた人でした。

 77年5月8日、部隊は、戦闘が終わって横堀の労農合宿所(だったと思うのだが)に集合していました。5・8戦闘の後で、戦った部隊が持つ鉄パイプは、ポケモンのピカチューのしっぽのようにひん曲がっていました。脳死状態に陥っている支援者の名が告げられると、「かおる〜」と、悲鳴のような長く尾をひく声があがりました。パイプが揺れ、「報復だ!」という声も上がっていました。

 総括集会は「権力の虐殺行為を許さず、東山薫の意志をついで闘う」という発言が相次いでいました。いったい、こんな犠牲を前にほかに何を語ればいいのか。
しかし、それらの発言は、言葉の軽さばかりが浮き上がって、中空に消えてしまっていたのです。

 そこに、初めて加瀬さんが壇上に立つ姿を見ました。加瀬さんが集会で発言するのを、それまでもそれからも聞いたことがありません。
 加瀬さんは傾いていく陽の中で、髪を振り乱しながら部隊に向かって獅子吼しました。

 彼は、地に付く鬼人のように闘い死んでいった大木よねのことを、くびれて下っていた青年行動隊の三ノ宮文男の遺体を自ら木から降ろした日のことを、全身全霊をかけて語った。
「三里塚の大地は血を吸い、闘争はその血で進んできたのだ……」と。

 新左翼と呼ばれる運動の中で、聞いたことのないアジテーションでした。内容と質と迫力において、まるで違うものでした。
 加瀬さんは特別なことを言った訳ではありません。「これが三里塚闘争」。彼はそう言ったのです。
 日本の農民運動、住民運動が持ちつづけ、格好付けの日本の「学生さん」「新左翼」になかった、真の意味の過激(土着的なラジカルリズム)と、その粘り強さ、闘うものの腹の据え方を語ったのでした。

 5・8闘争は、単にある部隊が実力闘争をやりきったというところに意味があったのではありません。東山薫というかけがえのない命を犠牲にして、涙も怒りもいっしょくたになり、それでも進む三里塚闘争の特質が、支援者たちの胸の内に深く刻み込まれたことが重要だったのです。

 闘争に命をかけることを簡単に受け取るふりをするな、利いた風な口をきくんじゃない。このようにして闘争は続けられてきたし、続けられていくのだ、と。
 私個人は、そのようにあの演説を聞いたのでした。

remol

1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議 | comments(7) | trackbacks(0)

★いま「産土参道」が始まっている

 大変な危機の時代が口をあけてしまいました。
 金融危機から始まった大リセッションに世界が縮み上がっています。恐慌に怯えて、企業はなりふりかまわず、です。
 いま、派遣労働者が焦点になっていますが、実態は、このremolも同じようなもの。この2ヶ月ほどですべての連載記事がなくなり、他の仕事も次々に消え去る運命の中にあるのであります。
いやいや、まったく生存の危機であります。
 誰か、「仕事をくれ〜、回せ〜」と日々、叫んでいるのであります。「うん、何でもやりまっせ。ホント」という状態。

 しかし、思うのです。これから数年間にわたり奈落へ向かって進む道は、働く側にはきついに違いない。けれども、かならず生き抜いて、この馬鹿げた世界をまるごと変革する糧にしなければならないはずだ、と。
 おまけにいまは、あの首相ですよ。おバカがトップに立っているこんなチャンスはまたとない。政府や政治というものに「何かしてくれるもの」と下駄を預けて、自分の生活を考える人たちにとっては、ただお先は真っ暗かもしれませんが、別の意図を持つものにはまた様相は違うものです。
 だいたい、管制塔占拠へ至る闘争の過程は、一本槍のおバカ福田赳夫のファインプレーなしに、あれほどアドバンテージはもらえなかったし、成功は覚束なかったかもしれません。

 いま、私たちは「産土参道」に立っています。それも開港阻止闘争の時に比べ物にならないほど、大きな舞台と広がりの中で、本気で喧嘩をして勝たなければならない闘いの入り口に立ってしまったのではありませんか。
 うん、ウブスナ……、比喩としてもなかなかいけるじゃないありませんか。本当に新しく生まれてしまおうぜっ! と。
 
 企業はもっとも弱い立場にある労働者の首を切った上に、住居から「出て行け」と抜かしているようです。
「雨は降る、往ねとはのたぶ、笠はなし、蓑とても持たぬ身に、忌々しかりける里の人かな、宿貸さず」ではないか。こら、お前ら、低賃金で働かせてさんざんしゃぶって、土砂降りの中にポイか? そんな里なのか? 企業城下町というところは、日本という国は。
 
 儲けさしてやってきたぶんは、堂々と、実力で取り返してもバチはあたりません。帰るところもない労働者に「いねとのたぶ」企業に対しては、有無を言わせずそこに居座ることから始めることです。厚労省を始めにする霞ヶ関官庁で「団交」を行い、補償の道を開かせ、保障を要求して座り込みをやるべし。
 なぁ〜に、不退去で逮捕されたって、3泊4日の食い扶持と寝る場所を確保したと考えれば、ありがたいもんじゃないですか。

 実力闘争といってもいいし、直接行動と言ってもいい。むろん、三里塚闘争がやったようにある意味、暴力的にやる必要はぜんぜんない。けれど直接行動は積み重ねていかなければあきません。
 要は生存、命の問題なのであって、お上品ぶる法律や、形式的な民主主義の手続きの問題ではない。三里塚闘争の経験は、こういう状況にこそ生かすべきものです。

 うまいことに、命がかかった生活防衛は、死なない限り「負け」はありません。
 もっとはっきり言えば、かつて、韓国の労働者が合言葉にしたように『死んでも負けない!』、これが正しいスローガンに違いない。
 ウブスナの闘い、を始めようぜ。
 

remol
- | comments(2) | trackbacks(0)

要塞づくり(1)

 みなさま、年の暮れであります。
 31年前のちょうど今頃、横堀に要塞が作られておりました。全国からやってきた学生や労働者が、要塞の基礎作りのためにただただ穴掘りしていたのです。学生の多くは、要塞建設隊として現地に駐留して、三交代で作業を続けていました。
 要塞建設と、年が明けて二月の要塞戦がなければ、三月の開港阻止決戦の勝利はなかったといってもいい。横堀部落に作られた要塞はそれほど重要な役割を果たしました。

 要塞づくりについて、少し振り返っておきましょう。

 77年の春から夏まで、三里塚闘争の焦点は、空港南側の岩山部落にありました。先述したとおり、まず岩山大鉄塔防衛による開港を阻止闘争の構想。第二に、鉄塔が闇討ちにあってからは、タッチ&ゴーを繰り返す飛行訓練を阻止するために、四千メートル滑走路の延長上に位置する岩山部落、朝倉部落あたりで、アドバルーンを揚げては機動隊と鬼ごっこをやったり、トラックで空港ゲートへ乗り付けて、一踊りしたりするというゲリラ戦が行われていたのです。

 5・8戦闘、つまり鉄塔が倒されたことに抗議する実力行動は、空港東南側のわき腹に位置する第5ゲート前で展開されたものです。
 実はこの位置関係も重要だったと思います。また、書く機会があると思いますが、空港反対運動の組織的な拠点としてあった千代田農協の傍で5・8闘争は闘われたのです。
 せめぎ合いの主戦場は、滑走路の延長上にあった岩山・朝倉から、当時の道に沿えば、空港東側を北上し菱田の辺田部落をすぎて、横堀部落へと移って行ったのでした。
 
 要塞は当初、鉄塔跡地の岩山要塞と、横堀の横風用滑走路予定地のど真ん中に建設が構想されました。岩山は目的を果たして完成したのですが、問題は横堀にありました。横堀の当初の予定地は、空港反対同盟の瀬利誠副委員長の家があったところです。
 反対同盟という組織は実におもしろいというか、知恵があるのです。一見、せめぎ合いに負けているように見えても、次の展開の備えて手が打ってある。転んでもタダでは起きない。瀬利副委員長が土地を売って、横堀の地を去ったときも、この宅地は、後の反対同盟の代表になる横堀部落の熱田一さんに、土地の名義が書き換えられていました。。

 要塞の準備が開始された当時は、インターの横堀団結小屋として利用されており、常駐者がおりました。ここで最初の「穴掘り」が開始されました。
 これは大変でした。とにかくここには「妨害物は建設させない」という警備の意図が、現実の介入としてギリギリとやってきたのです。

 やがて横堀要塞の建設地は、もう少し北東へ移動します。インター横堀団結小屋が横風用滑走路のど真ん中だとしたら、新しい建設予定地はこの滑走路に接する、もう一本の滑走路(4000mに平行する2500mの滑走路)の延長上に位置する場所です。
 辺田部落の三ノ宮さんの所有する畑の一角でした。
 71年の代執行後、自ら命を絶った三ノ宮文男さんの家が、この土地を反対運動のために提供し、ここで、これより2ヵ月後に壮絶な二月要塞戦が闘われることになるのです。

remol
1978.2.6二月要塞戦 | comments(2) | trackbacks(0)