★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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開港阻止 3・26へ (1)

1978年開港阻止決戦は、3月26日の現地集会から開港日となるはずの4月2日にかけての長期闘争として、多くの支援者には伝えられていました。むろん、1日目1発目で決めてしまうという計画を知っていたものもおりました。
機密保持はまぁ当然でありましょう。

三里塚闘争に連帯する会系の支援者の中で、党派部隊に属するものは、大方、前日の25日までには現地に入っていたはずです。地方にいる者は、24日に現地へ向けて出発する者が多かったのです。

24日、25日と見事な月夜でした。しかも24日はその月がきれいに欠けてしまう月食でした。「月夜に釜を抜かれる」というのはありますが、やってみせます!月夜にカマトンカチ! この月食のひとときを利用して、要塞へ最後のブツが搬入されたのでした。

要塞は、例のごとく「航空法違反」物件になる可能性がありました。実に不思議に間抜けに、機動隊は「6mの要塞に3mの塔が立てば高さ制限の9mを越える。ゆえに3m以上の建設資材は運び込ませない」ということでした。
でもね、つなぎゃいいんです。そんなものは。
というわけで、鉄塔を立ち上げる資材は、検問を潜り抜けて数日間のうちに運び込まれて、準備は整っておりました。

一方で、支援者がやってくる横掘の労農合宿所には、とてつもない物資が送られてきていたそうです。衣類、バス、トラック、冷蔵庫、医療品etc 全国から来る物資が山積みに。

大方のメンバーは片道キップのつもりでしたから、身辺整理をして、近親者があとで読むことになる、お手紙なんぞを残して現地へと向かったのでありました。

管制塔へ向かうプロ青の中川のおっさんは「無事に帰ってきてね」というテーブルの上の妻の手紙に、特別任務につく自分のことを何も語らず、ぼろぼろ涙をこぼしながら「ただ人民のみが歴史を動かすのです」と返事の置手紙。かぁ、俺も泣けるぜ。

同じく戦旗派の水野は、現地へ向かう車の中で、キャンディーズの最後の名曲「微笑返し」を「おしっこの仕返し、だって、わははは」と笑っていた。んなこと言ったって、自分がこれから長いところへの「お引越し」なんだよ。

さ、後楽園キャンディーズ解散の動員力と人気に負けてなるものか!
行くぞ、決戦の地、三里塚。
ヅカへ、ヅカへ、と草木もなびくよ〜 あらあらあらさっと
1978.3.26管制塔占拠 | comments(0) | trackbacks(0)

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