★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
<< December 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -
<< ★真の「過激」のつくられ方 | main | ★いま「産土参道」が始まっている >>

★真の「過激」のつくられ方 2

 三里塚闘争は、支援へ向かった初期の学生や労働者が、実力による生活防衛闘争を学ぶ場でした。そのなかで、開港阻止が日程に上り、約一年の実力攻防で、反対派がさらに鍛えられてきたと前回は書きました。
 岩山大鉄塔が闇討ちで破壊されて、その反撃の機こそが、後の開港阻止部隊にとってエポック・メイキングなできごとだったとも。

 既にこのときまでに、三里塚闘争は12年の歴史を持っていました。
 それがどのようなものだったのか。反対同盟にどのように刻み込まれていたのか、ひとつ例を挙げておきたいと思います。

 加瀬勉さんという人がいます。羽田に代わる国際空港があちこちに候補地を捜し、成田の隣の富里に決定しかかったときから、空港反対運動に関わってきた人です。社会党員で、日本農民運動のオルガナイザーでした。富里、三里塚と、誰よりも農民の運動を長く見てきた人でした。

 77年5月8日、部隊は、戦闘が終わって横堀の労農合宿所(だったと思うのだが)に集合していました。5・8戦闘の後で、戦った部隊が持つ鉄パイプは、ポケモンのピカチューのしっぽのようにひん曲がっていました。脳死状態に陥っている支援者の名が告げられると、「かおる〜」と、悲鳴のような長く尾をひく声があがりました。パイプが揺れ、「報復だ!」という声も上がっていました。

 総括集会は「権力の虐殺行為を許さず、東山薫の意志をついで闘う」という発言が相次いでいました。いったい、こんな犠牲を前にほかに何を語ればいいのか。
しかし、それらの発言は、言葉の軽さばかりが浮き上がって、中空に消えてしまっていたのです。

 そこに、初めて加瀬さんが壇上に立つ姿を見ました。加瀬さんが集会で発言するのを、それまでもそれからも聞いたことがありません。
 加瀬さんは傾いていく陽の中で、髪を振り乱しながら部隊に向かって獅子吼しました。

 彼は、地に付く鬼人のように闘い死んでいった大木よねのことを、くびれて下っていた青年行動隊の三ノ宮文男の遺体を自ら木から降ろした日のことを、全身全霊をかけて語った。
「三里塚の大地は血を吸い、闘争はその血で進んできたのだ……」と。

 新左翼と呼ばれる運動の中で、聞いたことのないアジテーションでした。内容と質と迫力において、まるで違うものでした。
 加瀬さんは特別なことを言った訳ではありません。「これが三里塚闘争」。彼はそう言ったのです。
 日本の農民運動、住民運動が持ちつづけ、格好付けの日本の「学生さん」「新左翼」になかった、真の意味の過激(土着的なラジカルリズム)と、その粘り強さ、闘うものの腹の据え方を語ったのでした。

 5・8闘争は、単にある部隊が実力闘争をやりきったというところに意味があったのではありません。東山薫というかけがえのない命を犠牲にして、涙も怒りもいっしょくたになり、それでも進む三里塚闘争の特質が、支援者たちの胸の内に深く刻み込まれたことが重要だったのです。

 闘争に命をかけることを簡単に受け取るふりをするな、利いた風な口をきくんじゃない。このようにして闘争は続けられてきたし、続けられていくのだ、と。
 私個人は、そのようにあの演説を聞いたのでした。

remol

1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議 | comments(5) | trackbacks(0)

スポンサーサイト

- | - | -

この記事に対するコメント

そうだよなぁ。産土参道の時は田んぼのあぜ道を追いかけっこしているようなものだったのが、一変したものな。産土戦の時は、あいつとあいつ。5.8の時はあいつとあいつと、あいつ。。。朝は一緒だったのにいなくなってしまった奴のことを思いながら、総括集会を聞いていたっけ。
MAN太 | 2008/12/10 11:50 PM
MAN太さん、こんにちは。

産土のときは、朝倉の小屋にいらしたんですかね。
泥まみれの運動会から、5・8のような戦闘に、ついつい断りきれずに付き合ってしまって、巻き込まれる(?)という支援者もたくさんおった(笑い)。

そういうことも、ある種、幸せだったよな、と思うわけであります。あげくが管制塔の上とか……。

はい、私は幸せ者でありました。
remol | 2008/12/11 4:59 PM
MAN太さん、ひょっとして、「隣の小屋の戦友は、偉い元気なやつでした」のマンちゃん、なんでしょうか?
コメントを読み直していて、ふと、思いつきました。

『NARITA1978』にも、マンちゃんの勇士ぶりが、語られている箇所がありましたなぁ。
カッコよかったです。
remol | 2008/12/13 1:31 PM
あの日は,千代田農協前から一端移動を始めた時点で、鉄パイプは折れ曲がり使い物にならなくなっていた。皆が口々に「もっと太いのはないのか」と云っていた。全身から立ち上るガスのにおいで、またげーげーしながら、畦道で田の柵に使われたパイプを探したりもしていた。小次郎スタイルにしたときに、抜き出し易いと考えると、「配給」されたくらいのモノになるんだろうが、役に立たなかった。FIHから活動を始めた私は、いわゆる「ゲバ棒世代」ではなく、少し遅れて来た世代だ。「武装」は身近では無かった。芝工大の寮に残る「学生インター武装突撃隊」などの落書きを前に「先輩」の専従から「激しかった頃の話」を聞かされるくらいだった。然し、所謂テント村建設前後の「訓練」、トラックで遠くに連れて行かれて、歩いて帰ってこいとか、「組み手」をやったりとか。あの辺りから次第に「武装」というモノがなし崩しに身近になっていった。しかし、77.5.8 あの日は全てにレベルが違った。500に満たない部隊だと思ったが、鉄パイプを握りしめて朝倉を飛び出していった我々の決意は次元が違っていた。然し、この日は敵も次元が違っていた。何しろ機動隊が打ち込んでくるのはガス弾だけではない。魚肉ソーセージと同じくらいの大きさで、色も同じようなピンク色の強化プラスチック弾(おそらく東山君に打ち込んだもの)をぽんぽん水平打ちで打ちこんでくる。そんなのがうなりをあげて耳元を、メットをかすめていく。その弾を拾ってポケットに入れたブル新の記者が、機動隊にけっ飛ばされているのも見た。「格好付けの日本の学生さん、新左翼」だったかもしれない我々も「腹を据える」事をたたき込まれた日であった。そうして僕らはへとへとになり、足を引きずって労農合宿所にたどり着いた。「水平打ち」「死者3名」「いや1名」そんな言葉が飛び交っていた。そこで始まった加瀬さんの演説は、そんな僕に、我々に、ずしっとのしかかった。ディエンビエンフー、インターナショナル、そんな言葉が北総大地にこだました。この大地で戦うと言うことは絵空事ではなく、こういう事なのだと、あらためて自身に刻み込む事になる、そうした演説であった。
| 2009/01/25 4:13 AM
あら、失礼。
1月25日のコメントに今ごろになって気づきました。
遅れ馳せながら、書きこみ、ありがとうございます。

5・8は、本当に「次元の変わる日」でしたね。
俺たちは、あそこで生まれた、というのが正しいのかも。

また、リアルな思い出話を聞かせてくださいな。
remol | 2009/02/13 2:51 PM
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://narita1978.jugem.jp/trackback/10
この記事に対するトラックバック