★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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★「開港阻止・管制塔占拠メンバーのいま」

  まず、たくさんの方にお礼を申し上げなければなりません。

 管制塔占拠メンバーは刑事事件の被告人としてだけでなく、管制塔を破壊したことをもって、国・空港公団(現成田国際空港株式会社)から、損害賠償請求を受けていました。 でも、管制塔グループは「(壊して何が悪い)ボルト1本、ガラス1枚、三里塚の農民の恨みのこもらないものはない。国や公団は、村を破壊し農民殺しをやってきたではないか」(管制塔占拠部隊・前田隊長「意見陳述」)と、あまりに堂々たる主張でありました。
 おまけに借金の経験がない奴ばかりでしたので、どうしていいかわからず、放っておきましたら、あら大変。当初、4千数百万円だったのが、利子で1億円ばかりに膨らんでしまったのでありました。ま、安いといえば安かったのです。当時、3月26日から出直し開港の5月20日までの営業収支で、確か29億円の損害を与えたと言われていたのでしたから。  3年ほど前に管制塔メンバーに「差押さえ」が始まったとき、わがことのように心配していただき、ただちにカンパに走り出して下さったみなさんがいました。
 またたく間に全額を集めて、国・空港会社に叩きつけることができました。カネを意に反して払わなければならないという、胸糞悪い仕儀でしたが、そのときの支援には心から感謝しております。ありがとうございました。
  というわけで、管制塔グループは全員合わせれば獄暮らし百年を越えているはずですが、いま、市井の片隅でひっそりと(「とは言えんなぁ」という奴もいるのですが)、暮らしております。生協の職員、出版社のえらいさん、フリーライター、製薬会社のプロパー、予備校の人気講師etc というふうです。
  まぁ、どんな連中なのか、長い裁判からの付き合いになった弁護士の先生の言葉を引いておきます。

remol
1978.3.26管制塔占拠 | comments(1) | trackbacks(0)

★「開港阻止・管制塔占拠メンバーのいま」2

 *人柄のよい男たち*(『1978・3・26 NARITA』)

――虎頭さんは被告の多くと同世代だったこともあるのでしょうが、法廷闘争を通し、個々の被告と交流を深めていったと聞いています。一個人として、彼らの行為をどう見ていましたか?

 連中のやったことは、農民の土地が奪われようとしていることに義憤を感じ、開港を阻止しようとしたわけでしょう。そこに私利私欲なんてものはまったくない。そういう意味で、純粋な人間たちだと思いました。
 それに、彼らはこの事件で相手方の人間に危害を加えていない。1階で防衛しているとき、火炎瓶で警官が少し火傷したけれど、これも意図的なものではなく、ハプニングで起きたことだった。少なくとも民間人にケガをさせてはいないのは確かでしょう。その点は計画した者も実行した者もきちっとしていた。
 16階に上がった連中も、パラボラアンテナをつたって追ってきた機動隊を落とそうと思えば落とせた。けれど、そういうことはやらなかったでしょ。あくまで目的は開港阻止であり、機動隊と争うことではない、恨みをぶつけることではないという意識が徹底していた。当時の映像を見ると分かるけれど、上の階まで行った連中はほぼ無抵抗で捕まっている。機動隊が管制室の中にガス銃をぶちこんだりしているけれど、16階組の6人は、まったく抵抗していないでしょう。

 そういった闘いであったからこそ、今回の基金運動でも、多くの人々が支援し、目標額に達することができたと思いますよ。本当によく集まりましたよね。
 それは、彼らが、ゴリゴリの活動家でなかったことも関係しているかもしれない。裁判をやっているときも、そんなことを思いましたよ。和多田、佐藤、前田あたりはともかく、ほかは普通の学生や労働者だったでしょう。いろんな活動はしていたけれど、いわゆる専従活動家ではなかった。

 だから、出所したあとも、ほとんどが党の活動から離れ、真面目に仕事をしているじゃないですか。いまは職場でそれなりに信頼されてるみたいだし、役職に就いている者もいる。そういう意味では、大学や、地域、職場から人選するときに、それなりにきちんとした人間を集めたんじゃないかな。人柄を知ると、そんなことも思ったりもします。

 それと、この事件の被告たちの特殊性として、分離組がいたっていう特徴がありますよね。3人が統一公判に加わらなかった。結局、彼らも実刑判決でしたが。普通、こういうセクトがらみの公判で統一公判から分離すると、「あいつら裏切り者だ」と冷たい扱いを受けます。ところが管制塔グループの連中は、「いろいろ事情があったのね」みたいな感じで、「裏切ったな」といった気持ちは全然ない。いまでも、飲み会をやるときには声をかけているし、実際に分離組も参加している。原くんの墓参りに泊まり込みで行ったときも、分離組から1人来ていましたしね。

 今度のカンパでも分離組と一緒にやってたでしょ。一緒に闘った仲間としていまでもつきあっている。戦友意識を共有しているんでしょうね。やっぱり、それは人柄なのかな。みんな、人がいいんだよ。別の言い方をすれば、そういう連中だからこそ、いまに至るまで僕も個人的な付きあいをやってこれたのかな、という感じはします。

――最近も、メンバーと飲みに行ったりしているんですよね。

 まぁ、誰かが上京してくると、「集まるので時間があったら来ませんか」といった誘いがきます。弁護団の中では、私がいちばんそういう会合に出てますね。この前、みんなで韓国に行くときも声がかかったんだけど、日程があわなくて行けなかった。まぁ、集まって飲みに行けば、近況を報告したり、昔話をしたり……。今の世の中の動きについてどう思うかといった議論をすることもある。

 それぞれいろんなことやってて、話をしていても面白いよ。いわゆる活動をやっている人はほとんどいないけれど、だからといって思想・信条を完全に変えて転向したわけではない。何か動けることがあったら地域や職場で動いてみようと思ってる。そういうエネルギーを持っている人が大部分だと思います。
(以上、『1978・3・26 NARITA』より許可転載)

 
 ほめられすぎ、ひいきの引き倒しという気がしないではありませんが、管制塔グループの雰囲気や、今の様子はほぼ正確に伝えています。要するに、あんまり根性バリバリ、威張りやさんはいなかった、ふつうの若者たちであったということであります。そして、いまは、ふつうのおじさんをやっているのであります。

 ほら、あなたのすぐそばに、元カゲキハが……(笑)。

remol
1978.3.26管制塔占拠 | comments(0) | trackbacks(0)

開港阻止 3・26へ (1)

1978年開港阻止決戦は、3月26日の現地集会から開港日となるはずの4月2日にかけての長期闘争として、多くの支援者には伝えられていました。むろん、1日目1発目で決めてしまうという計画を知っていたものもおりました。
機密保持はまぁ当然でありましょう。

三里塚闘争に連帯する会系の支援者の中で、党派部隊に属するものは、大方、前日の25日までには現地に入っていたはずです。地方にいる者は、24日に現地へ向けて出発する者が多かったのです。

24日、25日と見事な月夜でした。しかも24日はその月がきれいに欠けてしまう月食でした。「月夜に釜を抜かれる」というのはありますが、やってみせます!月夜にカマトンカチ! この月食のひとときを利用して、要塞へ最後のブツが搬入されたのでした。

要塞は、例のごとく「航空法違反」物件になる可能性がありました。実に不思議に間抜けに、機動隊は「6mの要塞に3mの塔が立てば高さ制限の9mを越える。ゆえに3m以上の建設資材は運び込ませない」ということでした。
でもね、つなぎゃいいんです。そんなものは。
というわけで、鉄塔を立ち上げる資材は、検問を潜り抜けて数日間のうちに運び込まれて、準備は整っておりました。

一方で、支援者がやってくる横掘の労農合宿所には、とてつもない物資が送られてきていたそうです。衣類、バス、トラック、冷蔵庫、医療品etc 全国から来る物資が山積みに。

大方のメンバーは片道キップのつもりでしたから、身辺整理をして、近親者があとで読むことになる、お手紙なんぞを残して現地へと向かったのでありました。

管制塔へ向かうプロ青の中川のおっさんは「無事に帰ってきてね」というテーブルの上の妻の手紙に、特別任務につく自分のことを何も語らず、ぼろぼろ涙をこぼしながら「ただ人民のみが歴史を動かすのです」と返事の置手紙。かぁ、俺も泣けるぜ。

同じく戦旗派の水野は、現地へ向かう車の中で、キャンディーズの最後の名曲「微笑返し」を「おしっこの仕返し、だって、わははは」と笑っていた。んなこと言ったって、自分がこれから長いところへの「お引越し」なんだよ。

さ、後楽園キャンディーズ解散の動員力と人気に負けてなるものか!
行くぞ、決戦の地、三里塚。
ヅカへ、ヅカへ、と草木もなびくよ〜 あらあらあらさっと
1978.3.26管制塔占拠 | comments(1) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (1)

みなさま、「3・26」でございます。
いい宵ですね。
春宵一刻、値千金
春雷一撃、開港阻止

3月26日朝、外はきれいに晴れ上がっていたのですね。
管制塔占拠部隊はまだ暗黒の中。部隊を組みなおします。
当初予定した22人が15人にメンバーが減っていました。確かこれを5人ずつの3グループに分けたはずです。

持ちこんだ武器は整理されました。とにかく身軽にして、一気にマンホールから飛び出して勝負できるならしようということでした。
入り口で忍び入るのを見られている以上、出口では機動隊が待ち構えている可能性が高いと考えたのです。

鉄パイプ、大ハンマー、そして触発性の火炎瓶。あとはすべてマンホールの中に置き去っていくか、排水溝の口から小見川へ捨て去ったはずです(置いていてもよさそうなもんですが、そうもいかないものもあったのです)。

「いくぞ!」の声の直前。まだ、党派が違う人間はよく知らない間柄ですから、それぞれの党派で声をかけていました。
プロ青が凄い。
「死んでもお互い、恨みっこなしだぜ」
津田のセリフであったそうです。津田は夜にひどく目が見えづらかったのだそうで、このマンホールへ至る間に田んぼに落っこちて、おろおろするのを中川のおっさん達に「お前、帰れ!」「いや、連れていってくれ。頼むから」と、やってきていたのでした。

15人は一列になって、マンホール内の小さな鉤型の手かがりを伝って数メートルを登り、丸い、横に伸びる側溝に這いこみます。ここにきてようやく数時間ぶりにうすぼんやりとした明かりを見ることができました。
後ろからブツが送られ、それを出口になる集水口の向こうに伸びる側溝へ押し込み、最初に飛び出す先頭の藤田がその集水口の真下に位置しました。

時計を見て、飛び出す時間を量る。‥‥‥しかし、不思議なことがあります。このとき、二番目に位置した平田は、後方から前方へ頭上を通りすぎていく人の話し声を聞いているというのですが、藤田にはその記憶がないといいます。

午後1時、藤田はバールで集水口の碁盤になった鉄の蓋を抉じ開けようとします。
うまくいきませんでした。やがて彼はヘルメットを脱ぐと、慎重にバランスをとっておでこと両腕で一気に持ち上げたのでした。
すぐさま飛び出した藤田は「牧歌的な状況」に驚いた。空にはひばり、出口すぐそばにある信号機のカチカチという機械音を聞いていました。
二番目の平田はその声、音を聞いていないといいます。本当に人間がある状況の中で、認識するもの記憶するものというのは、個人差があって不思議なものです。

5人が飛び出してから、前田がブツを下から必死に上に持ち上げて、先の5人に渡しました。こういうところをきちっと自らやるところが前田なんですよ。
次々とメンバーが出てきていたのですが、途中で制服の警察官が小走りにこちらへやってきました。
震えながら、銃を構えて。

仲間が出てくるまで5、6mの距離で対峙しながら、先に出たメンバーは時間を稼いでいました。前田は出てくる人数を数えていたといいます。
管制塔組は半円に囲む警官を一気に蹴散らして突っ走りました。と、いってもどの方向か事前にシュミレーションしていた前田以外、他のメンバーは全然分かりませんから、「こっちだ!」の声に従うほかになかったのですが。
最後の中路はまだ体半分しか地上に出ていませんでした。
ただ、制服警官は、管制塔組が走り始めたとたんに「い、いかん!」と絶叫したのです。
そう、俺たちが向かうのは管制塔。

行く手に煙が上がっているのが見えました。
管制塔が建つ管理棟敷地に入ったとき、突っ走る15人の目の前に、異様なものがぬっと立ち上がりあがりました。消火液をかけられ真っ白になった人でした。
1時きっかりに、9ゲートから突入したトラック部隊のメンバーです。
トラックに積んであったガソリンに引火し、それが燃え移って全身を焼いた仲間です。
消火液をかけていた警官は、消火器を放り捨てて、管理棟へと本当に脱兎のごとく逃げました。
真っ白になった9ゲート部隊のメンバーも、管制塔組の後を追ってまた走り、管理棟の中で逮捕されたといいます。

管理棟1階に管制塔組が走りこんだとき、警備本部は解体したようです。
9ゲートからトラック2台で突っ込こまれ、慌てふためいた警備本部がやや持ちなおして、ふと心理的な空白ができていたのではないかと思います。
そこへ2撃目が加えられました。
その瞬間に警備本部のえらいさんたちは、蜘蛛の子を散らすように現場から逃亡したのでした。管制塔組が突入した管理棟1階の真上、2階の空港署に警備本部が置かれていたからです。

1階ロビーで5人が警察官と対峙して頑張る間に、10人がエレベータに乗りこみ、上へと向かいました。
こうして、管制塔占拠が開始されていったのでした。

remol




1978.3.26管制塔占拠 | comments(4) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (2)

3・26闘争は「空港・突入・占拠」と、前年の夏から合言葉にしてきた方針の具体的な実践でした。
このスローガン自体、はじめは「空港・占拠」だったと思います。いつのまにやら、戦闘意欲にあふれすぎている活動家達が「突入」をくっつけてしまったものだったと記憶します。

この日、大まかにいえば、空港に対して3ヵ所から突入し、管制塔を占拠して機器を破壊、開港を不可能にする、という戦術です。
おバカさんの警備陣は、2月要塞戦で翻弄されたために、またもや横堀要塞に鉄塔が立ち上がり、赤い旗やら「いまぞ起て、減反に苦しむ百姓も大義を樹てる春がきた!」なんていうカッコいいコピーの横断幕でが飾られたために、頭に血が上って、精鋭部隊を派遣してしまっていました。
こんな思惑以上の好条件のもと、空港周囲での遊撃戦も行われ、相手戦力を分断して、突入・占拠戦が行われることになったのです。

この日の闘いの構造は、やはりプランナーだった和多田に語ってもらうのが一番。

*3・26当日の部隊配置*(『1978・3・26 NARITA』)
 私は、「空港包囲・突入・占拠」の戦術的な指導をおこなったわけですが、その第一が、菱田小学校跡地から出発して丹波山を通り第8ゲートにむかう大衆部隊。第二に、それとは別に、午後1時に第9ゲートを突破して空港管理ビルにむかう、トラック2台の陽動部隊。これは、管理ビル周辺にまだ残っている機動隊を外におびき出し、管理ビルの近くをぐるぐる回りながら火炎瓶を投げたりして、トラックに引きつけるという役割でした。
 このふたつの作戦を展開しながら、地下からの部隊が午後1時に地上に飛び出して、管制塔への突入、占拠をめざす、ということになっていました。

 当日は午前9時から、菱田小学校跡地で闘争の前段集会が開始されました。1000人〜1500人規模の集会でした。なぜ、そこで全体集会を持ったかというと、空港中枢の管理ビルにむけて部隊を出発させるためには、第3ゲートに近い三里塚第一公園で開かれる集会からではルート的に遠すぎるということ、また、そこからでは、警備側主力部隊の阻止線を突破することは無理と考えたからです。そういうことで、菱田小学校跡地で集会をおこなって、8ゲート部隊はそこから直接空港へ突入していくという作戦でした。

 その前夜には、管制塔を襲撃する部隊を送り出しました。深夜、下水道のマンホールから潜入し、当日午後1時ちょうどに、管理ビルから直線距離にして100メートルくらい離れたところの集水口から出て、管制塔を襲撃する部隊は、22名による編成でした。この作戦を可能にするためには、管理ビル周辺の警備が手薄になった無防備な空白状況をつくらないかぎり、突入は難しいと考えて、そこからすべての作戦を立てたわけです。

*陽動作戦* 
 警備状況については、すべてわかってました。彼らの警備の最重点は3・30開港当日だったので、3月26日の三里塚集会は、反対派にとっては大きな集会ではあるけれども、それは簡単に封じこめられる、と。散発的なゲリラは3月30日の開港当日にかけて、周辺でおこなわれるだろうが、これも個別に対応すればよい、と考えていたようです。
 それで私たちは、この年の2月に要塞戦があった横堀に、もう一度、要塞を修復して鉄塔を建てれば、警備側は必ずその撤去のためにやって来るだろうという予測を立てました。
 
 3・26の前日、ある新聞記者から、千葉県警上層部のなかで開港までの警備方針について意見のちがいが出ている、と聞きました。それによると、県警本部は「横堀要塞に鉄塔が建てられたならば、その撤去をふくめて、そこに主力を投入すべきだ」と主張し、三井脩参事官を中心とする警備本部は「三里塚第一公園の集会を封じこめることに全力を投入すべき」という意見にわかれている、と。これを聞いて、しめたと思いましたね。それで、鉄塔を建てれば必ず来るという予測のもとに、25日の夜、横堀要塞に鉄塔を建てました。(『1978・3・26 NARITA』より)

remol





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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (3)

世の中の展開はなかなかに早うございます。
激しく三里塚闘争が行われていた頃、無内容にただ元気よく「♪さらば涙といおう」とTVで歌っていた剣道少年が千葉県の知事になってしまいました。
ずっと続くタレント知事とその活躍を忖度いたしますに、「知事なんてものは誰がなってもお仕事できるのね」と思ってしまうのでありますが。

森田氏は成田については「羽田・成田をつなぐリニアモーターカー」が政策らしい。
このままでは羽田拡張によって、成田が沈んでしまうという危機感は、千葉県側はそうとうに深いようです。
しかし、極東アジアのハブ空港という展望からいえば、私の目にはすっかり決着がついているように見えます。成田のあの規模による役割、これからぶつかる課題からみれば、東アジアのハブ空港は、およそ望むべくもない。羽田でさえその役割を果たすことはもう無理なのではと、思います。
東アジアに冠たる国際空港の建設は、成田が足を引っ張り続けてこの体たらくというのがこの問題の正しい見方。成田が羽田に取って代われるわけがなく、羽田もその役割では「危ないど」ということでしょう。
日本の指導者は、国際的な視点も先を見る目もなく、アホやったということですね。

かつて激しく反対運動を展開した住民の中に「空港との共存」を自分たちの未来としてい選び取った人がたくさんいます。その人々もこれから、この問題でまた翻弄されたり切り捨てられたりする状況が生まれてくるのではないでしょうか。
遠い昔のお話をしているのも、ただ世の流れに取り残されているばかりのようでいながら、実は原因や結果が連なり、またその結果が原因になりということを思い返すに、「あのとき」が今にどう生きるのか、考えてみるのもけっして無駄ではありますまい。

決まったことをただ官僚的に進めることしかない成田空港は、そのために問題を大きくし、また次の困難を生み出していきます。糊塗とごまかし、が成田の歴史です。それを無理やりにやろうとするから、恐ろしく暴力的なありさまになってしまいます。
私たちの実力闘争は、時と場所をわきまえた、「激しいけれど最低限のお仕事」というのが私の印象です。
なのになぜ、一連の闘争があれほど波及力をもったのか? 
そこを本気になって考えて見なければなりません。
(反対運動をむやみに無内容に戦闘的な装いで強調するあり方も、支援に向かった新左翼は根強くもっていましたが)

当日、空港に突入した者たちはまなじりをけっしておりましたが、いっぽうでどこか「あ、こりゃこりゃ」の感覚もまたあったのです。
管制塔を占拠した部隊は「殺すな」「人質をとるな」という規律が課せられていました。
高いところでの勝負になったとき、ひとつ間違えば人死にが出る、というのはありえる話でした。
頭にかっとくる場面でも、冷静に事態に対処すること。少なくとも管制塔組は、意外に落ち着いていたとはいえると思います。

好きな話があります。
排水溝から這い出して、(鉄パイプより格段に破壊力の大きい)ハンマーをもった児島が、「俺は人を殺してしまうのだろうか?」と思ったというのです。
もうひとつおかしいのは、たぶん管理棟7階でエレベータを降りたとき、また児島はキャーを悲鳴を上げた女性の職員を見て「何か悪いことをしているのかな? 世間ではこういうのを犯罪というんだ」と、妙な自覚をしたというのであります。
やっているほうと、びっくらこいたほうの意識の落差。当たり前でありますが、けっこうおかしい話です。
驚かせたのは申し訳ない話ですが、時と場所を選んで、それも自分のカラダで責任を取るつもりでいたのですから、許してくださいね。

一方で、管制塔事件の後、劇作家のつかこうへいが1階のカメラに残された映像を指して「革命なんていうのなら、真っ先にそれを壊さんかい!」と、ありがたい悪態をついていました。
雑誌記事のそれを読んで私は笑い転げました。
きっと演劇的にあの闘争が行われた、といいたかったのかもしれませんが、あの闘争が革命につながるなんぞ、やったやつの誰が思っていただろうか。そこにカメラがあったことを1階に残った連中の誰が知っていただろう。

我らの気質と、それを遠くから見るものによる平和的気質のお門違い。
でも、人間としてみるなら、どこかでつながるリアリティ。
官僚的で暴力的に進む事態に、おろかしくてもお笑いでも、あくまで人間として立ち向かうこと。
私たちにはこれしかなく、そしてそれが最大の武器です。
一見、弱く見えて、これがいちばん強い。

誤解をないまぜにしながら、それでも広がっていく共感の波のようなものが運動や闘争を支えるものだと思うのであります。
共感の波は、ある時点でとてつもない大渦をつくってしまうものです。
そこには頑強に、粘り強く、しなやかに働き続けている人間が、かならずいるものです。

remol

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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (4)

管理棟1階に残ってエレベータ前に対峙線を張った5人は、なかなかの奮闘でした。
警備本部が解体しているのだから、制服のおまわりさん達もどこかへ逃げればいいにと思いますが、彼らの中にも責任感の強い人たちがいたようです。

恐らく、管制塔組が排水溝から出たとき、拳銃を抜きながらやってきた警官もその中にいたでしょう。たぶん、彼らが午後1時に平田が排水溝の中で聞いた、頭上を通りすぎていった声の主だと思います。通りすぎていった方向からやってきたのですから。
ただし、あののんびりした調子から察するに、9ゲートからのトラック2台とは、管理棟前では遭遇していないはずです。もし、管理棟前にいたら、排水溝のほうへは来ていないのではないでしょうか。

9ゲート組は、パトカーを追尾しながら、拳銃で撃たれつつ空港へ突入したといいます。土門や児島の兄などは、撃たれるたびに首をすくめながらパトカーの後を追走したそうです。「いきなり」の出現には警官、機動隊もまず逃げます。三里塚のようなところならなおさらです。それに、短銃というやつも距離があったり、的が動いていたりしたら、まず当たりません。

最初の一撃で恐慌をきたした警備陣は、統制なんて望むべくもありませんでした。
管制塔組が警官に発見されて、ブツを手に手にもとうとしていたとき、その警官の背後50mくらいのところに機動隊が右から左へと現れ、その中の何人かはこちらの様子に気づいて、あきらかにとまどったそぶりをみせました。
しかし、来なかったのです。命令を受けている人達、部隊で動いているものは、先を急いでいるようでした。混乱とはこうしたものです。

でも、もし彼らがやってきて警官の勢いがついたとしても、結果は同じだったでしょう。
またプロ青の津田あたりが拳銃の前に両手をおっ広げて「撃てるもんなら、撃ってみろ!」と叫んでいたに違いありません。
むろん、前田は彼をほっといて先を急がせていただくのでありましょう。

1階で、このお定まりのパフォーマンスが行われました。
焔ビンが投げられ、向こうからは消火器が飛んでき、えらい太い丸太でぶんなぐられたそうです。
パフォーマンスの主の津田は、身柄を確保されたのちに、ヘルメットに消火器を叩きつけられ、はめられた手錠で引きづり回されて、手首を骨折します。
1階組はぞんぶんにやられたわけです。

エレベータに乗った10人は、一気に7階(たぶん)へと上りました。先に上がった前田組5人はおそらくここから階段を駆け上があっているはずです。
管理棟は7階建て。そのそこからタワーが聳えているのでした。

中川ら後発組はうまくエレベータを乗り換えて、前田組を追い越して13階へと至ります。
まだ、壁塗りの職人さんが仕事をしておられました。
ほらほら拙速で開港しようなんてするから、まだできてないじゃん。
職人さんは、そこに自らがいないかのように、ただ壁を向いて突っ立っていました。
立ったまま、いて、いない。ほかにやりようがないのです。
その背後を赤ヘルの5人が疾駆して、階段を駆け上ったのです。

13階より上は行けませんでした。14階は堅くどのドアも締まり、階段を上れません。
ただ、あとで分かったのですが、14階の一室の機械が、洋上管制のためのマイクロ通信施設でした。
ぼんやりやってきた中路が、ハンマーでぶったたきます。
たぶん、これで壊れていたはずです。
中川のおっさんは、やらずもがな、中路が立ち去ったあとにやってきて、焔ビンを放りこみます。真っ黒、煙ばっかり。

煙でむせているところへ、遅れた前田達が足音高く駆け上がってきました。
赤ヘルでよかったです。先の5人は「機動隊が来た」と思いました。
下手すりゃ、機動隊と間違えて、焔ビンをお見舞いするところでした。

remol


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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (5)

駆け上がって来た前田達は、先行組と合流しますが、「うろうろどたどた」でした。
先行組も「うろうろばたばた」なのです。
すでに先行組が体をぶち当て、パイプやハンマーで開けようとしたドアにまたチャレンジが行われました。

前田はとにかく上へ行こうとしました。
前田は太刀持ち児島を従え、ずどどどっと、15階へ向かったのです。
15階というのは、後に裁判で知ることになるのですが、中二階のような構造で、どうもちゃんとした部屋ではなかったようです。
ただ、上へ礼儀正しくのぼっていくには、この中二階を通っていくしかないのです。

前田は礼儀正しく「開けて頂けないでしょうか」と声をかけ‥‥るわけがねぇよな。
「ジュンちゃん、ここ!」
と、ドアのノブ辺りを指して、叫びました。
前田は続けて「開けろ! 開けんか!」と叫びましたから、ドアの向こうに人の気配がしたことは確かです。
と、いうより、実は16階の管制室から15階のドアに向かって、ソファー、椅子と、必死に投げ下ろしていたそうなのです。

児島は、大ハンマーをぶるん、ぶるん、ドカン、ドカン。
郵便配達の自転車の足が地に届かなくったって、その分、狭いところでも腰は低いし力も入るぞ。いけ! ジュンちゃん!
でも、前田が「きたねぇぞ!」といくら騒いでも、16階にいるらしい人々は、そりゃ開けません。

その間も、他の者たちはうろうろ、どかどか、てんやわんや。
でも、どうにもならんのです。
下からはまもなく機動隊がやってくるでしょう。何とかせねばなりません。
ここで一戦か。ま、俺達が上にいるし、しばらくは有利に抵抗できるでありましょうが。

そんなとき、小泉が声を上げるのです。
「ここから出られるぞ!」
それが所沢・東京ACCに向いているパラボラアンテナのあるベランダでした。
小泉がここの扉を開けて、外へ出る道を見つけたのは、見えないファインプレーでした。

「占拠! 占拠!」と声が上がりました。
上に行けないなら、とにかく少しでも有利な場所を確保するしかありません。
その声を合図のようにして、10人は鉄の扉を潜って、14階ベランダに出たのでした。

間一髪でした。
後部の数人がまだ外に出ていないときに、機動隊は階段に姿を見せたのです。火炎瓶数本、おそらくあの壁塗り職人さんが残していたペンキ入りのバケツが、紺色のヘルメットの上に、放り投げられました。

かくして、10人の赤いヘルメットが、三里塚の春の風が吹く高い舞台に姿を現したのでした。

remol




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3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (6)

14階にはパラボラアンテナが二つありました。一つは私たちが占拠した所沢を向いているもの、もう一つが確か筑波を向いているものではなかったかと記憶しています。
といったところで、当時の私たちの誰もそんなことは認識していません。

二つのパラボラアンテナは、洋上の航空路管制通信を行うためのもので、当然、管制塔ビル14階の別向きの場所にあり、その一つに私たちは陣取ったのでした。
このブログに使ってある写真には写っていない向こう側に、もう一つのバラボラアンテナのあるベランダがあり、そこへは直接には私たちも行けなかったのです。

14階ベランダは10人でも十分にいられるスペースがありました。てんやわんやは、ひとまずすんで、春の風を胸いっぱいに吸い込むことができました。ドアには3人ほどが腰とお尻でしっかり体重をかけて、蓋をしておりました。

ベランダの手すりには、戦鋒隊と戦旗と文字が浮き上がる赤旗が垂らされたのでした。
戦鋒隊というのは、プロ青同が組織していた三里塚闘争の大衆(いちおう)闘争団体
の名称でした。それはインターが組織する青年共闘・学生共闘が(実体は丸裸に近い党派活動家による戦闘集団でも)三里塚闘争を闘う大衆闘争団体として、イチオー位置付けられていたのと、同じようなものであったでしょう。

あの旗は誰が持っていったものでしょうか。たぶん太田だったでしょう。これもいちおう管制室に行くメンバーだったはずですから。
戦旗ははっきりしてました。水野が腹に巻いていたのでした。
警官に追いかけられ、機動隊に脅かされて階段を走り上ってきたとき、それは、下へ下へとずり落ち、走るに走れない実に情けない思いをしたのだったと後に述懐しておりましたから。

インターの旗、なぁ〜し。
前夜、マンホールに入るのに失敗したメンバーが所持していたのです。
はい、いつも毎度のことなのかもしれません。決定的なドジ。
いいねぇ、伝統だもの。

ベランダから右遠方を望むと、横堀要塞が見えました。こちらは満艦飾。赤く美しいたくさんの旗と、横断幕に飾られておりました。

そして……、あの赤ヘルメットの大部隊が姿を現したのでした。
来た、来た、来た。

前田が音頭をとり始めました。しゅぴれひコール!
「開港を阻止するぞ」「空港・突入・占拠するぞ」「管制塔を占拠したぞ!」
手すりをガンガン鉄パイプでぶつ奴、空に向かい、赤い隊列に向かい叫ぶ奴、なかなか気持ちの瞬間でした。

やがて、先頭でパイプを振りながら、リードしていた前田は、くるりとこちらを向くや
「俺達はここにカンパにアに来たんじゃない。どんなことをしてでも管制室に行くぞ。ぶっ壊すんだ!」と叫びました。

あの青い目が、またまた色を変えて、必死に道を探せと言うのでした。

remol
1978.3.26管制塔占拠 | comments(0) | trackbacks(0)

3・26管制塔占拠・開港阻止闘争勝利! (7)

8ゲート前に姿を現した赤ヘルたちは午前中に菱田小学校跡地で、集会に参加していた部隊でした。
彼らは、延々と空港の北東へと樹林にまぎれて迂回路を取り、横堀要塞の裏側を通って、8ゲートへと通じる道へ登場したのでした。
たぶん彼らは10キロ近く、行進してきたことになるでしょう。

彼らが管制塔占拠メンバーと、互いに姿を確かめ合ったとき、まだ、管制塔組は16階管制室への突入路を見つけておりません。
8ゲート部隊のインターの隊長クラスは、14階ベランダの赤旗と人を見て、こんな会話を交わしたといいます。

「おい、俺らの旗がねぇじゃねえか? プロ青と戦旗が占拠したのか?」
「いいや、間違いなくあそこにいるのの半数は我が派だよ。また、旗を忘れたんだろうよ。日韓の時のことを思い出してみろよ」
日韓閣僚会議粉砕闘争ってやつです。
外務省に突入したはいいが、そこにおったてるはずだった南ベトナム解放戦線旗やら槌鎌の素敵な「大漁旗」を、お忘れになったのです。
はい、指揮者はあの原田君だったはずであります。

8ゲート部隊はずいぶん予定の時刻から遅れていました。
戦旗派にご事情がおありだったようです。
準備していたブツを前日(?)にすっかり機動隊にもって行かれてしまったのだそうです。
後に名を挙げる「水野・山下精神」も、木材を鉄ブツに変える力があるはずもなく、時を越える魔法も持ち合わせておりません。
いたしかたのないことでした。

さて、8ゲートの部隊の動きは管制塔の上から見ていても、よくわからんものでした。
申し訳ないが、『1978・3・26 NARITA』を読めば読むほど、笑えます。
語っているのは、8ゲート部隊を率いたインターの大隊長・中隊長。現場ではなく無線で指示を与えていた青年共闘(インター系)の大門、そして、今も称えられるゲバルト勇士、プロ青の大森さんです。

*「今日は引かないで頑張ろう!」*(『1978・3・26 NARITA』より)
 佐々木●8ゲートの部隊のなかで、「横堀要塞前から突撃開始して午後1時に8ゲートを突破」ということを知っていたのは、(無線で本部から指揮する)大門と連絡をとっていた大館だけ。だから、大館は焦るわけだよ。
 大森●僕たちも急げ、急げと言われたが、時間を教えてもらっていない。現闘だから道は知っているから、これだけの大部隊が、あの細い道を簡単に通れるはずがないこともわかっている。戦旗派の武器が到着しなかったのは、前日に山をガサ入れされて鉄パイプを持っていかれてしまったので、やむをえず角材に変えた。これが部隊と武器とのドッキングが遅れ、角材という10年前のスタイルで戦旗派が登場した理由です。俺たちは前日の警察無線でそのことを知って、戦旗派は明日、どうするのだろうと心配していた。

 大門●要塞に籠城していた現闘責任者は、午後1時に3方向から戦闘が始まることを知っていて、チャンスがあれば、できるだけ機動隊を要塞に引きつける作戦行動をとることになっていたのだが、「1時になっても8ゲートに部隊が到着しない。計画変更ですか」という連絡も入ったりした。
 佐々木●けっきょく、30分くらい遅れたね。横堀要塞周辺の出発地点に30分遅れで到着したとき、管制塔付近から煙が上がっている。

 大森●精華学園でいったん止まって、あの細い道を出た丹波山のところで部隊が勢ぞろいした。私の任務は、「突っこむときに先頭にいればいい」ということで、第1中隊の第1小隊長。京都にいるAとIが、前年の5・8から交互に指揮をとっていたのですが、Aと僕と、インターからは3〜4人が出てきて、「今日は頑張ろう」と丹波山で握手をしたのは覚えています。そのときの意思一致は、「今日は突っこむ」。先鋒隊で言われたのは「今日は引かない」ということだけです。陽動作戦がちょっとでも頭に入っていれば、考え方は変わっていたと思います。
 佐々木●陽動作戦といっても、進んでいけばどこかで機動隊の阻止線とぶつかる。そのときは引かない。とことんやりぬく。しかし、それで空港のなかまで行きつけるという想定は、少なくとも僕の頭のなかには全然なかった。

 大森●途中にバリケードがいくつもあるのは知っていたから、空港のなかまでいけるとは思っていなかったよね。
 佐々木●8ゲートに至る途中で、機動隊と大乱戦になるはずだった。
 大館●それをやらないかぎり、管制塔部隊は上までいけない。中隊長クラスまでは、みんな、そう考えていたと思う。
 高橋●想定では、8ゲートのはるか手前で白兵戦になるはずだった。ところが行けども行けども白兵戦にならない。どんどん進めてしまう(笑)。
 大森●空港を作るための砂利の山が、あちこちにいっぱいあって、そのあいだを行進していった。途中に開けたところもあるが、その場所にはバリケードもなければ機動隊もいない。 (『1978・3・26 NARITA』)

管制塔を占拠され、空港内に置かれた警備本部が解体してしまってから、もう警備どころじゃなくなっていたのです。どこにどう部隊を配置するのか、どう動かすのか、機動隊の側はやりようがなく大混乱に陥っていたのでした。

ま、やりたい放題になるわな。

remol
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