★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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プロローグ

1978年3月26日、日曜日。快晴。
千葉県千葉市貝塚にある通称貝塚マンションは静かな朝を迎えた。かがむようにして小さな窓から空を見上げた。現場の仲間達に思いを馳せながら、朝のオツトメを。
朝食を済ませると、机に向かって読書しながら、考えていた。「さあて、どうしたもんかいな。」

やがて、昼に。日曜の午後はマンション唯一の娯楽、ラジオ放送が流れる。のど自慢やら歌謡曲やらを聞くとは無しに聴いていると。。。

「ここで、臨時ニュースです。開港を間近に控えた新東京国際空港にゲリラが突入し。。ブツっ」
隣りの部屋もそのまた隣りの部屋も、ピーンと張り詰め、静かになった気がした。
少しの間、放送が止まり、再開された。しばらくするとまた
「臨時ニュースです。成田空港の管制塔にゲリラが突にy。。。ブツ」
ニュースが終わると放送を再開。
「管制塔に赤はt。。。ブツ」
・・・

こうして、規定の時間まで放送は続き、ニュースが入る度に、一瞬のタイムラグを置いて切られるという状態が続いた。そのおかげで現場の状況をリアルタイムに、かつほぼ正確に知ることができた。

だが。今こそ、告白せねばならない。

あの日、
管制塔突入部隊の諸君が駆け上がっているその時、空港占拠部隊が白兵戦を演じているその時に
千葉拘置所の独房で。俺達は、俺達二月要塞死守隊は、自分の知る限り誰一人として戦ってはいなかった。

だって、ヘタにシュプレヒコールなんかあげて、懲罰房なんぞに持ってかれたら
ラジオが聞けないじゃん。

肘をついて、お茶をすすって。時折覗き込む看守と目が合ったりして。
『なんだよ、今日はずいぶん静かじゃないか』
『うるせぇな、いい子にしてんだから文句はねぇべ』無言で会話したりして。

ただ、夕方、看守がいなくなった隙に、誰かが吹く「赤旗の歌」の口笛が流れただけである。

注)二月要塞戦 横風用滑走路予定地の延長線上の横堀に建設した要塞の屋上に1978年2月5日鉄塔を建てたことから突如衝突となった攻防戦。1978年2月6〜7日にかけて戦われた。
6日早朝からはじまり、その日の夜要塞部分は制圧されたが、鉄塔部分にいた4名は翌7日まで残り、強烈な寒さの中、機動隊の浴びせる放水に耐えて、遂に制圧されることはなかった。
三里塚芝山連合空港反対同盟の撤収命令により撤収した。
その後、鉄塔は破壊されたが封鎖されることはなく、建設が続けられ、3月26日には再び鉄塔が建てられ攻防戦が行われた。トップの写真左は3月要塞戦時のもの。
自分は6日夜組だったが、寒かったな〜
元 成田2039記

1978.2.6二月要塞戦 | comments(8) | trackbacks(0)

要塞づくり(1)

 みなさま、年の暮れであります。
 31年前のちょうど今頃、横堀に要塞が作られておりました。全国からやってきた学生や労働者が、要塞の基礎作りのためにただただ穴掘りしていたのです。学生の多くは、要塞建設隊として現地に駐留して、三交代で作業を続けていました。
 要塞建設と、年が明けて二月の要塞戦がなければ、三月の開港阻止決戦の勝利はなかったといってもいい。横堀部落に作られた要塞はそれほど重要な役割を果たしました。

 要塞づくりについて、少し振り返っておきましょう。

 77年の春から夏まで、三里塚闘争の焦点は、空港南側の岩山部落にありました。先述したとおり、まず岩山大鉄塔防衛による開港を阻止闘争の構想。第二に、鉄塔が闇討ちにあってからは、タッチ&ゴーを繰り返す飛行訓練を阻止するために、四千メートル滑走路の延長上に位置する岩山部落、朝倉部落あたりで、アドバルーンを揚げては機動隊と鬼ごっこをやったり、トラックで空港ゲートへ乗り付けて、一踊りしたりするというゲリラ戦が行われていたのです。

 5・8戦闘、つまり鉄塔が倒されたことに抗議する実力行動は、空港東南側のわき腹に位置する第5ゲート前で展開されたものです。
 実はこの位置関係も重要だったと思います。また、書く機会があると思いますが、空港反対運動の組織的な拠点としてあった千代田農協の傍で5・8闘争は闘われたのです。
 せめぎ合いの主戦場は、滑走路の延長上にあった岩山・朝倉から、当時の道に沿えば、空港東側を北上し菱田の辺田部落をすぎて、横堀部落へと移って行ったのでした。
 
 要塞は当初、鉄塔跡地の岩山要塞と、横堀の横風用滑走路予定地のど真ん中に建設が構想されました。岩山は目的を果たして完成したのですが、問題は横堀にありました。横堀の当初の予定地は、空港反対同盟の瀬利誠副委員長の家があったところです。
 反対同盟という組織は実におもしろいというか、知恵があるのです。一見、せめぎ合いに負けているように見えても、次の展開の備えて手が打ってある。転んでもタダでは起きない。瀬利副委員長が土地を売って、横堀の地を去ったときも、この宅地は、後の反対同盟の代表になる横堀部落の熱田一さんに、土地の名義が書き換えられていました。。

 要塞の準備が開始された当時は、インターの横堀団結小屋として利用されており、常駐者がおりました。ここで最初の「穴掘り」が開始されました。
 これは大変でした。とにかくここには「妨害物は建設させない」という警備の意図が、現実の介入としてギリギリとやってきたのです。

 やがて横堀要塞の建設地は、もう少し北東へ移動します。インター横堀団結小屋が横風用滑走路のど真ん中だとしたら、新しい建設予定地はこの滑走路に接する、もう一本の滑走路(4000mに平行する2500mの滑走路)の延長上に位置する場所です。
 辺田部落の三ノ宮さんの所有する畑の一角でした。
 71年の代執行後、自ら命を絶った三ノ宮文男さんの家が、この土地を反対運動のために提供し、ここで、これより2ヵ月後に壮絶な二月要塞戦が闘われることになるのです。

remol
1978.2.6二月要塞戦 | comments(2) | trackbacks(0)

要塞づくり(2)

遅ればせながら、謹賀新年。
 気がつけば、「唐土の鳥も渡らぬ先に、七草なずな〜」も過ぎ去っております。実は、年末からもろもろぜ〜んぶ打ち捨てて、ずっとあることに没頭していたのであります。
 ただ、それでも日比谷の派遣村のことだけは、気になって、ニュースを息をつめて見つめておりました。

 あれは「横堀要塞」の第一段階です。現在の情勢の中で、もっともいい方針でやりきったといえます。
 まず場所。やるならあそこしかない。厚生労働省前にテントを建てて対峙のイメージを具体的に現出させたのが見事でした。危機的な状況の中で、厚労省は、講堂を開けざるを得なかった。
 このブログでも
「儲けさしてやってきたぶんは、堂々と、実力で取り返してもバチはあたりません。帰るところもない労働者に「いねとのたぶ」企業に対しては、有無を言わせずそこに居座ることから始めることです。厚労省を始めにする霞ヶ関官庁で「団交」を行い、補償の道を開かせ、保障を要求して座り込みをやるべし。
 なぁ〜に、不退去で逮捕されたって、3泊4日の食い扶持と寝る場所を確保したと考えれば、ありがたいもんじゃないですか。」と前に書いていますが、その第一歩です。

「対峙」を現出させて、そこに支持を集める。私たちが要塞建設と要塞戦でやろうとしたことです。
 しかも、今回の派遣村は、生活保護受給や就職相談を行い、そこへやってきた人たちの命の保障と、生活の建て直しの方策に取り組んだ。バラバラで志気阻喪させられてきた人たちに結集の場をつくり、人間としての誇りと前進する意欲をもたらした。インタビューで「励まされた、生きる意欲が湧いてきた」と応える姿をみていると、グッとくるものがありました。労働者が成長していくとは、こういうことを言う、というのが実感させられたのでした。
 
 総務政務官が「(集まった人が、厚生労働省の)講堂を開けろ、もっといろんな人が出てこい(と言っていた)。何かしら、学生紛争の時の『学内を開放しろ』『学長出てこい』という戦術、戦略が垣間見えるような気がした」と言うのは、ある意味当然。
 本音を言う場所を間違えただけで、ことの本質・行く末を見誤ってはいない。本音をいっていい場所と、状況を読めないタイミングの悪さにおいて、こいつはおバカなのでありましょう。
 この手のろくでなし思考を跳ね返して、意識的に進む労働者をどれだけ準備できるのか。今後はこれで決まる。
 巨大な規模の「要塞戦」が、いま始まろうとしている。

 remol

1978.2.6二月要塞戦 | comments(7) | trackbacks(0)

要塞づくり(4)

 横堀要塞は2500m滑走路の延長線上につくられました。先に書いたように、インターが常駐していた横堀団結小屋の脇につくろうとして果たせず、そこへ転進したものです。

 三の宮さんの畑へ横堀要塞建設を移すことができたのも、実は、空港建設計画のずさんさのおかげだったともいえます。
 岩山大鉄塔が建っていた位置(岩山要塞建設地)もそうだったのですが、ここはアプローチエリアと呼ばれる部分で、本来、空港建設の事業認定を受けておかなければならない重要な地点でした。

 当たり前ですよね。航空機が離着陸するには滑走路だけでは足りるはずがない。着陸するには、滑走路に向かって徐々に高度を下げていく空間が必要です。そこに、背の高い建造物があれば、滑走路が死んでしまいます。岩山鉄塔が77年に撤去されるまで、航空機の離着陸を阻んでいたのは、その理由によります。

 ところが、当時の空港公団は、この部分を空港建設の計画段階において事業認定からはずすという失態をおかしていました。巨大な航空機が離着陸するのに、灯火で誘導する施設の計画について、失念(?)していたわけです。
 公団の建設計画、進め方はほんとうにずさんなのです。私たちが占拠し機器を破壊した管制塔のほかに、また新しい管制塔を作らざるを得なかったのもまた、計画のひどさにありました。(また、この件についてはいつか、書くことにしましょう)

 インター横堀団結小屋が、要塞の下準備で穴掘りに入ったとたんに、機材はもっていかれるわ、材料は運び込めなくなるわ、という妨害を受けました。空港建設側からする法的根拠は、事業認定を受けている土地の形状変更を許さない、ということでした。
 いつのことやらわからない横風用滑走路の建設のために、その部分に手をつけてはならない、ということなのであります。

 で、結局、事業認定を受けていないエリアで要塞は建設されていったのです。それでもやろうとしていることはバレバレですから、三ノ宮さんの畑にも、とにかくよくヘリコプターがやってきては、上からサーチライトを照らしては、「芝山町香山新田○○番地で、建築物を建てるのは違法行為である」なんていう警告がなされるなかで、要塞建設が進められました。

 こちらは航空法違反ということだったと思います。これまた、できるかどうかも分からない滑走路のアプローチエリアの話ですから、法の適用も、まったくウルトラCであったでしょう。事業認定にかかっているかどうかは、ほんとにえらい重要なことであります。結局、このせめぎ合いのなかで、公団・機動隊は手を出すことができなかったのです。

 横堀の要塞はすさまじい勢いで建設されました。ブル、ミキサーのフル稼働はもちろんでしたが、交代で24時間働き続ける要塞建設隊の学生や労働者の、人間の限界を超えた働きが完成をもたらしたものでした。

 ほとんど完成している一期工区の、管制塔や滑走路をとりまく灯火が光るのを遠くに見ながら、彼らはひたすら土とセメント粉にまみれて作業を続けました。
 酷寒でした。筋肉は固まり、精神はぎりぎり。わけのわからぬ叫び声と、突如始まるケンカ。それでもやりぬいた建設隊の連中のすごさを、私は忘れられません。

 中島みゆきのテープが、建設現場によく流れていました。

remol

 
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要塞に鉄塔が建った!

1978年のあの日の「今夜」も、こんな月が出ていたのだったでしょうか。
この夜、酷寒、確か零下7度といっていたと思います。

横堀の要塞は、分厚いコンクリートの壁面の内に人を込め、上部に鉄塔を立ち上げきったのでした。やってきた機動隊をぎりぎりのタイミングで払い落とし、要塞篭城組が雄たけびを上げて、闘いは開始されました。

私が駆けつけたのは、もう、夜だった気がしますが、記憶が判然としません。
しかし、なんという闘いだったろうか。
3・26より、ある意味、人間の素がそのまま表現されていく、おそろしくも感動的な闘争でした。

今日は、ひとりの女性の回想を引用させてもらって(ホームページ「red mole party」に採録されているもの。まっぺんさん、事後承諾ですが許されよ)横堀2月要塞の記述を始めることにいたします。記憶と資料をたどりつつ、数回書いてみます。

「私は好奇心から、Aさんが全財産を投げ出してまでカンパする三里塚の要塞建設についていきました。午前中はトラックに乗って野菜集め、午後はモッコをかついで土を運びました。その時でも、都会育ちの私には「美しい所だな」と思いながら、なお違和感が残りました。
 しかし、2月6日、私はテレビを見て、すごく頭にきました。何と表現すればいいのかわかりませんでしたが、「私のつくった要塞がこわされる」という感じが涙とともにこみあげてきました。
 午後、私はAさんを探しました。Aさんは休みを取っていて、課長が「また三里塚にいってんじゃない」と笑いながら知らせてくれました。
 仕事がおわるといてもたってもいられなくて、三里塚の横堀まで行って、みんなについて暗い山の中を歩きました。……
 気がつくと、他の人はズボンやジーパン、私だけスカートです。みんなが心配してくれました。私はたき火のもとで、鉄塔に声をかけ手を振り一晩を過ごし、翌日は会社を休みました。最後にはみんなと腕を組んで泣きながらインターを歌いました。
 3月には、私は闘うひとりとして三里塚に行きたい。私はこの目で見てきたことを職場の人に話しています。私の新しい人生が始まった気がします。ともに闘う仲間として迎えて下さい」(「管制塔に赤旗が翻った日」柘植書房より)

remol



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横堀要塞40時間の激闘(1)

2月横堀要塞戦の戦端が切って落とされたのは、6日、まだ明け切らぬときでした。
2月4日夜、要塞の3,4階部分に相当する部分にビル用鉄骨が組み上げられ、日をまたいだ午前1時頃、その上に一気に20mの鉄塔が立ち上げられたのでした。

反対同盟の「やる!」の決定が3日。むろん、今度は岩山大鉄塔撤去のような闇討ちは、けっしてさせない、ケンカの準備をして臨むということでした。
もちろん、機動隊がこなければ、すぐには戦闘にはならない。しかし、来れば直ちに、徹底抗戦に入る、ということです。

公団・機動隊からは「航空法違反」の警告が繰り返し行われていました。あれから30年以上たっても計画通りに完成しない滑走路の、事業認定から漏らしていたアプローチ・エリアの「航空法違反」です。2月1日の「警告」では、「高さ9mを越えれば、航空法違反となる」という、あきれかえった理屈でありました。

建設できなかった30年間には、時効という法の原則にも思い切って目をつぶるサービスをしてやるとして、それにしてもあの時点で9mの高さ制限とは、これいかに。
彼らの本音は、「こんなコンクリートのどデカイ箱を完成させてしまったら、この先も撤去できなくなる」であったでしょう。

反対派は「やっちゃうもんね」でしたから、3,4階部分の鉄材ががっしりと組まれた時点ですでに12m、「航空法違反」ということになりました。
この鉄骨を枠にして、コンクリートを打設されたら、ほんとに彼らにとって、えらいことになるのでありました。

5日、午後1時すぎ、大量の警備車両と機動隊を引き連れて、公団が「警告」にやってきたのでした。係官の緊張して上ずる声、えらく具体的な細かい条項。形だけの「警告」とは明らかに違っていたそうです。
夜、あちこちから機動隊の動きが急と知らせが入るようになります。大掛かりな動員では、高速道路を走るカマボコ(機動隊バス)の数や、緊張感は隠しようもないし、公団周辺で取材している新聞記者は受ける印象がいつもと違ってくるものです。

鉄塔が立とうが立つまいが、機動隊はこの要塞に手をつけにくるという決意と方針をもっている、ということがはっきりしたということです。
「明日、来る」の情報は、徹夜続きの建設隊員を色めきたたせ、必死に作業を急がせます。この時点では、もう要塞完成ではなく、戦闘準備に入るしかない。
反対同盟が篭城の人選に入り、大量の戦闘ブツが運び込まれます。

6日、4時半、反対同盟の緊急動員の通知。5時過ぎ、要塞外周の支援をする労働者や学生が労農合宿所あたりに結集して、部隊が編成されていきます。

6時前、横堀街道(横堀と菱田を結ぶ村の動脈)で、最初の戦闘が開始されます。いろいろ勇ましいことが言われるのは世の常でありますが、ま、小手調べ。要塞が最後の戦闘準備に入る時間を稼ぎながら、機動隊に少しでも打撃を与えるということです。

もちろん、朝焼けの中で、別の赤い色と黒い煙が、この街道を包んだのでした。

remol
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横堀要塞40時間の激闘(2)

要塞に立て篭もったのは40数名。その中には6人の反対同盟の幹部たちがいました。

内田寛一行動隊長は朝倉部落で酪農を主にやっていて、団結小屋がそこにあった私たちも大変にお世話になりました。芝山町の社会党の中心人物でもありました。熱田一さんはいわば横堀要塞の責任者、横堀部落の人格的な代表者でもあり、後に反対同盟(熱田派)の代表になった人。当時の肩書きは副行動隊長でした。小川源さんは、二期用地内の木の根部落を開拓で作り上げた、これも木の根部落の代名詞のような存在。

石井英祐さんは辺田部落の重鎮、地域や農協関係の核になる人だった。岩山部落の長谷川タケさんは「長谷川せんせい」と呼ばれた方。元教師の婦人行動隊長。小川むつさんは婦人行動隊の副隊長で、のちに農協全国理事になって農村の女性をリードしていく「ほんと地頭のいい人格者」(ある新聞記者)です。

いま、これらの人々の名前は、ほとんど実名で出てきません。しかし、私はあえて書き記します。亡くなったり闘争を離れたりして、名前が過去に霞んでいる人もいます。それだけなら、まだいいのです。
私には、個人的に許せない感情があります。
彼らの名誉と名前は記憶されなければなりません。

のちに、中核派を中心とする「支援」党派が、政府との接触、成田用水問題、一坪共有地問題などで、「脱落派」だの「裏切り者」だの、私からすればあきれ返る物言いで、これらの人々を非難し中傷し、家まで押しかけて脅迫もどきの言動を行いました。

よ〜く、覚えておかなければならないのは、この要塞建設から二月要塞戦の激闘を、これらの人々は力の限りに闘ったということです。もうひとつ、よ〜く覚えておかなければならないことは、のちに彼らを非難した連中は、これらの闘いの最中、ほとんど影さえみえぬ「闘わぬ人々」であったという事実です。

嘘だというのなら、当時の新聞でも資料でもひっくり返してみればいい。
その党派が自己の勢力(メンバー数や資金を含めて)、それにふさわしい人とカネを拠出し、闘いを組み上げる努力をしたのか。別に逮捕されることがいいわけではないけれど、何人の逮捕者を出し、それが全体の逮捕者の中に占める比率はどれくらいだったのか。

人は恥というものを知らなければならない。前衛を名乗っていたのなら、さらなり。
農民を責めるような資格があったのか、考えてみるがよろしい。

さて、立て篭もった40数人は徹底抗戦をやりました。
機動隊は「航空法49条違反の容疑で現場検証を行う」というのであります。引き連れてきた大型クレーン2台は「では何のため?」です。
タケさんは「夜もあけぬうちから、非道な行為をするというのですか。ここは私たちの土地、ただちに出ていきなさい」
近寄る機動隊員の上に、火炎瓶と石つぶてが雨あられ。

機動隊は「内田さん、違法行為をやめさせなさい。さもないと、あなたたちを逮捕することになる」と、やさしいご警告。
内田行動隊長「私たちはこれまでの生涯すべてをかけて、ここにいる。逮捕など覚悟の上だ」
熱田さんは要塞から身を乗り出して両手を広げて叫ぶ。聞いたのは、要塞内にいた篭城組だけである。超低空にホバリングするヘリの音で、周囲に聞こえるわけもない。
この時のことを、その後、鉄塔最上部にしがみついて、酷寒零下の放水に耐えつづけることになる大島は、「簡潔な言葉だった。闘って生きてきた人の本当の言葉に心を打たれた。短く『感動した』と伝えた」と振り返った。

からだ、生涯、胸のうち、すべてをそこにかける農民と、ともにいる労働者や学生の間に虹がかかる一瞬。そりゃ、幸せでございます。

クレーン車の前に婦人行動隊が身を投げ出す。機動隊が容赦なくジュラルミンの盾で殴る。立て篭もった石井英祐さんの妻、節子さんが、つまりジューゼム(屋号・十左右衛門)のおっ母ぁが顔を盾で割られる。鼻の骨を折られ眼の下が陥没する。
これが空港建設だ。成田空港が作られてきた姿そのもの。

節子さんは「機動隊が見えたから要塞に入るか、クレーン車が来る道を塞ぐがしかないって思って、機動隊のところへ駆け出していったんだよ」
なんていう人たちなんだろう、俺は泣けてくる。

remol





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横堀要塞40時間の激闘(3)

機動隊の急襲を受けたとき、要塞は完成していませんでした。
3階部分に板枠の防具をめぐらし、旗を飾り付けてあったと記憶します。
篭った支援者は、要塞建設隊の学生や団結小屋の常駐者でした。当日にたまたま現地入りしていた者もいたはずです。
かろうじて機動隊の突撃を跳ね返して、中に篭ったのですから、支援者の方はあらかじめ人選されて準備されていたとは思えません。

それにしてはよく闘ったのです。火炎瓶や石が量的に十分に用意されたことが、抵抗を強くしました。さらに、相変わらず、機動隊はドジだったのです。
要塞が未完成のうちにとにかく破壊しなければならないとあせっていたのだと思います。

切磋琢磨してこそ、好勝負ができるのでありましょう(マルキとの切磋琢磨にまるで興味のない「最大支援党派」も前述のごとくありましたが)、わが警視庁の誇るレインジャー部隊まで投入して攻撃に移った割には、ちょっと情けない泥縄攻撃だったのです。
こういった間抜け振りは、3月の開港阻止決戦にも、実はいかんなく発揮されるのでありますが。

反対同盟は実に反対同盟らしく闘っていました。母さんたちが、阻止線を張る機動隊の盾をゆすっては、「おっとうに弁当をもってきただよ。自分たちの土地に入っていくのに、なんでおめえたちは、じゃましてんだ」と食い下がります。

要塞攻撃の機動隊は、どひゃああ、と寄せては、ボコボコとブツを放られて、撤退の繰り返し。
要塞に向かって放水を繰り返すうちに、下はどろどろのぬかるみと化し、「ああ、北総のジョシュウよいか住みよいか、こりゃこりゃ」なのでした。
ドでかい重機は身動きならず、それでもやりようがないから、時間はかかる。

機動隊は頭上を盾で覆って動き回り、それが射程距離に入れば、「てっ〜!!」とビンやら鉄材やら石やらを放つのでありました。
実際、高いところから機動隊のあの姿をみると、コックローチそっくりなのですよ。
「合成洗剤!」と思わず、叫びたくなる。ま、洗剤より火のほうが威力はあるわな。

何度かの機動隊の総攻撃は、そのたびにこうして跳ね返されていました。
一方、空港周辺でヒットアンドアウェイが起こり始めます。
検問所、ゲート前にトラックに満載された赤ヘル部隊が乗りつけ、攻撃を加えていたのです。

機動隊が要塞への進入路を確保したのは午後も遅くなってでした。
ここから本格的な放水が始まります。高さ20メートルのゴンドラを備えた高圧放水車など、十台の放水車が要塞に接近して、猛烈な放水を開始しました。

要塞が水煙にかすんで見えなくなるという凄まじさ。
けれど、また、この放水のさなかに鉄梯子で近づく機動隊に、火炎瓶や鉄片、石などを投げつけて抵抗する篭城組の姿が、水煙の霞みがたなびく向こうに垣間見えるのでした。

横堀街道でも、機動隊へ向かって、突撃が行われていました。
焔ビンと鉄パイプで阻止戦を崩しにいく行動です。

ここで3人の逮捕者。実は3月の管制塔占拠の隊長に抜擢されていた男が、その中にはいたのでありました。
代わりに8ゲート大隊の指揮者から管制塔攻略部隊へと移る前田くん。
ああ、不運なのか運がいいのか、我らがデバラ・前田隊長。

remol




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横堀要塞40時間の激闘(4)

6日午後4時過ぎ、要塞近くに取り付いた機動隊が、催涙ガスを乱射し始めます。またまたクレーン車を近づけようと、図ったのでありました。
すでに放水車もクレーン車も、火炎瓶を落とされて炎上、後退して消化液まみれになっていたのでした。ガス弾の援護射撃も、「チェックメイトキング2、マル対の抵抗が激しく持ちこたえられません」てな具合でした。

戦争ごっこで学んだ「コンバット」のようにうまくいくかぁ〜! 
で、クレーン車に3発の焔ビンが着弾、炎上。またまたクレーン車は後退なのです。

三里塚の大地に日は落ちて、ついに夜戦に突入したのでありました。
何台もの投光器の光に照らし出されて、要塞はますます堅牢に居座り、地上30mの鉄塔はいよいよりりしい姿でそびえるのでした。

火炎瓶よけの金網トンネルが持ち出され、そこを通って機動隊の射手。えらいぞ、いい根性だ。鉄塔にガス弾が当たって跳ね返る音が、遠く離れて見守っている支援者の耳に連続的に響いてくる。
でも、焔ビンはまた落っことしちゃうもんね。

超高圧の放水と、息も出来ぬはずの催涙ガスの乱射の中で、あらゆるものが投げつけられ、ついにはガソリンが上からまかれて、焔ビンで火がつけられます。
要塞の外壁一面がぐわぁと炎に包まれたのでした。放水でも炎は衰えません。
こうして、また、機動隊とクレーン車はすごすごと撤退。

夜8時、ついに機動隊の指揮官車がマイクで要塞に呼びかける。
「これ以上、立て篭もっているのは君たち自身が非常に危険になります。ただちに出てきなさい」
これは警告ではありませんね。確かに命ぎりぎりのところに篭城組はいたのだが、むしろ、この呼びかけは機動隊の悲鳴でありました。
「悲鳴」がもっと深刻になっていくのは、これからなのであります。

(と、ここまで書いたところで、『1978・3・26 NARITA』を編集してくれた結書房のOさんが隣にきてくれました。久しぶりに一献傾けつつ…というわけで、本日これまで。いよいよクライマックスに至る次回を待て! って、いまさらそんな大層なもんかですが、『1978・3・26 NARITA』をまだ読んでいない方は買ってくださいね)

remol
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横堀要塞40時間の激闘(5)

午後10時、放水とガス弾の乱射のなか、クレーン車のアームが要塞3階部分の防御板を破ります。穴は横に広げられ、鉄骨が剥き出しになります。
機動隊はそこに梯子をかけて決死の登攀。投光器の光のなかに、催涙弾を浴びながら、梯子を外そうとし、焔ビンを投げ、抵抗しつづける篭城組の姿が浮かび上がります。
要塞内の火炎瓶に引火した炎が火柱が。

20分後、機動隊はついに3階部分に侵入。水と催涙弾のカクテル液にずぶずぶになりながら肉弾戦。ボコボコ…ボコボコ、ま、やられます。
引きずられたり、ヤッケを引き千切られたり、けが人多数。
いいんだよ、十分やったんだからボロキレになっても、しっかり誇りをもって、連行されていけば。

ここでの逮捕者、反対同盟6人を含めて45人。
彼らが乗せられたカマボコに、おっ母さんたちがとりすがる。

だがぁ、まだ鉄塔の上に、4人が残った!
ここからほぼ24時間、零下7度の夜の寒風、放水、飛んでくるガス弾を受けながら、4人は頑張りぬくのです。

北総の闇の中に投光器に照らされた鉄塔がそびえ、その闇を通して、彼らが鉄塔を鉄パイプで打つ音が、カン、カン、カン…と響いてきます。
生きている証。
夜がふけていくのに、次々に反対同盟や支援が阻止線の外側に集まってきます。
彼らは、谷に降り、あぜ道を踏んで、四つんばいになって高台の林を這い登って、やってくるのでした。

そう、トロツキーが『ロシア革命史』でかつて書いたではありませんか。コサック兵の馬の腹の下を通って進む労働者の姿を。「革命は道を選ばない!」
ここは、農民の大地であり、機動隊は侵略者。地を知り大義をもつのは三里塚農民。
鉄塔のてっぺんには、インター現闘員の大島。

*横堀要塞*(『1978・3・26 NARITA』)
 柘植●まず、2月6日からの2月要塞戦についてですが、このときは、お二人はどこにいたのですか?
 林●学生に動員がかかっていたので、私も関東の学生と一緒に現地に入っていました。
 鉄兵●僕は学生現闘だったのでその前からずっと現地にいました。決戦前の準備のため、2月5日の夜から朝まで夜通しで投石用の石をとりに行ったり、火炎ビン用のビンを盗みにいったりしましたね。確かジャリは間に合わなかったと思います。
 柘植●この2日間は、主に大島くんたちが闘ったわけだけど、2人は現場で彼の勇姿を見ていたわけですね。
 鉄兵●とにかく寒い夜だったよね。鉄塔の上には僕の友だちが2人、大島といっしょにのぼっていました。大島はハデにやっているな、と思いましたね(笑)。
 柘植●あいつはいつも歌舞伎がかっているから(笑)。
 位置を確認すると、まず要塞があって、三の宮さんの畑があって、谷津田があって、それを越えたところに戦旗派の小屋があった。機動隊の阻止線は畑の真ん中あたりだったかな。外のみんなは、畑で焚火をたいて声援を送っていた。2月6日の夜には、戦旗の小屋あたりに宣伝カーを置いて、インターナショナルを歌ったり、「眠っちゃダメだ」と呼びかけたりして、要塞メンバーを激励した。眠ったら、凍死しちゃうからね。岩沢さんもスピーカーを通して「がんばれ、がんばれ」と応援したんだよ。そうしたら鉄塔の方から、ガン、ガン、ガンと音が響いてきてね。鉄パイプで応えてきたんだ。それで「ああ、生きている」と――そういう感じだった。中核派が3月要塞戦で、外から宣伝カーで同じことをやったんだけど、あれはまったくさえなかったな。
(『1978・3・26 NARITA』より)

鉄塔にしがみついて、支援者が焚く火に向けて、音で闇夜を裂く鉄パイプ。三里塚3月開港阻止決戦へむけての命がけの打鐘棒でした。

remol

(イレギュラーず さん。よかったら、横堀要塞40時間の激闘(3)のコメント、007さんに応えてあげていただけませんか。わたしより、ずっとあなたのほうがふさわしい。きっと、この2月要塞戦もそうなのに違いない。痛い目もみていないのに、知ったふうな現場の様子を書いて、すまんこってす)
1978.2.6二月要塞戦 | comments(6) | trackbacks(0)