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1978年3月26日、日曜日。快晴。
千葉県千葉市貝塚にある通称貝塚マンションは静かな朝を迎えた。かがむようにして小さな窓から空を見上げた。現場の仲間達に思いを馳せながら、朝のオツトメを。
朝食を済ませると、机に向かって読書しながら、考えていた。「さあて、どうしたもんかいな。」
やがて、昼に。日曜の午後はマンション唯一の娯楽、ラジオ放送が流れる。のど自慢やら歌謡曲やらを聞くとは無しに聴いていると。。。
「ここで、臨時ニュースです。開港を間近に控えた新東京国際空港にゲリラが突入し。。ブツっ」
隣りの部屋もそのまた隣りの部屋も、ピーンと張り詰め、静かになった気がした。
少しの間、放送が止まり、再開された。しばらくするとまた
「臨時ニュースです。成田空港の管制塔にゲリラが突にy。。。ブツ」
ニュースが終わると放送を再開。
「管制塔に赤はt。。。ブツ」
・・・
こうして、規定の時間まで放送は続き、ニュースが入る度に、一瞬のタイムラグを置いて切られるという状態が続いた。そのおかげで現場の状況をリアルタイムに、かつほぼ正確に知ることができた。
だが。今こそ、告白せねばならない。
あの日、
管制塔突入部隊の諸君が駆け上がっているその時、空港占拠部隊が白兵戦を演じているその時に
千葉拘置所の独房で。俺達は、俺達二月要塞死守隊は、自分の知る限り誰一人として戦ってはいなかった。
だって、ヘタにシュプレヒコールなんかあげて、懲罰房なんぞに持ってかれたら
ラジオが聞けないじゃん。
肘をついて、お茶をすすって。時折覗き込む看守と目が合ったりして。
『なんだよ、今日はずいぶん静かじゃないか』
『うるせぇな、いい子にしてんだから文句はねぇべ』無言で会話したりして。
ただ、夕方、看守がいなくなった隙に、誰かが吹く「赤旗の歌」の口笛が流れただけである。
注)二月要塞戦 横風用滑走路予定地の延長線上の横堀に建設した要塞の屋上に1978年2月5日鉄塔を建てたことから突如衝突となった攻防戦。1978年2月6〜7日にかけて戦われた。
6日早朝からはじまり、その日の夜要塞部分は制圧されたが、鉄塔部分にいた4名は翌7日まで残り、強烈な寒さの中、機動隊の浴びせる放水に耐えて、遂に制圧されることはなかった。
三里塚芝山連合空港反対同盟の撤収命令により撤収した。
その後、鉄塔は破壊されたが封鎖されることはなく、建設が続けられ、3月26日には再び鉄塔が建てられ攻防戦が行われた。トップの写真左は3月要塞戦時のもの。
自分は6日夜組だったが、寒かったな〜
元 成田2039記