★俺たち、タワー・アタッカー!!★

成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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★実力攻撃が必要だったわけ

 ブログを読んでくださるみなみな様には、経験をともにした方も多いかと存じます。
 きっとお顔を存じ上げている方もいらっしゃるでしょう。
 ご挨拶かたがた、歌などひとつ歌うことにいたします。

 ♪はいけい、ごぶさたしましたが、
  ぼくもますます元気です。
  5・8(ゴッパチ)以来、きょうまでの
  赤いメットのタマのあと
  見せてあげたや、おっ母さん
    タカ・タッタッタ〜
 
 はい、原曲は『上海便り』というけしからん歌であります。メロディーはおじさん、おばさん世代ならすぐ口から出てくる、
 ♪親ガメの背中に子ガメを乗せて、子ガメの背中に孫ガメ乗せて〜、
のアレです。

 3・26闘争(管制塔占拠)は一日にしてならず、です。
 思えば、三里塚闘争の現場で、鉄パイプとジュラルミンの盾の戦乱的攻防戦が闘われたは、その一年前からのことでした。これは、それまで飛行機の離着陸を阻んでいた岩山部落の鉄塔二基が、抜き打ちで5月6日に倒されたことに対する反撃戦として行われたものでした。
 もともと開港阻止の闘いは、岩山大鉄塔の防衛戦から始まると考えられていたのです。

 権力は「肩透かし」のつもりだったでしょう。
裁判所が撤去の仮処分決定を不意打ちで出し、夜陰に乗じて機動隊が周囲をかため、抵抗らしい抵抗ができぬようにしたうえで鉄塔を倒したのです。
 理屈はつきます。「反対派の抵抗による混乱、怪我人を避ける」という慈愛に満ちた配慮です。しかし、裁判官さま、公安のみなさま、警察のご同輩、そんなナマ言っちゃいけません。
 反対同盟のじいさんから子どもまで、そんな甘ちゃんではないのです。「あなたがたがそのように育ててくれたではありませんか」と私どもは感じたのでありました。

 かくして、部隊と部隊がぶつかり、石や火炎瓶が乱れ飛びました。1971年の強制収用をめぐる一連の闘い以来、6年ぶりのことだったといっていいと思います。
 このとき、5月8日の空港第5ゲート前で行われた戦闘がもっとも激しいものでした。この過程で坂志岡団結小屋の常駐者、東山薫さんが機動隊員にガス銃で殺されました。

 この日、機動隊が使用したガス銃から撃ち出されたのは、催涙弾だけではありません。機関銃弾のような流線型の強化樹脂製のタマが大量に撃ち込まれたのです。
 催涙弾はそれ自体、化学兵器のようなもので許しがたい治安武器です。しかし撃ち出されてからの軌跡も見えるし、避けることもまぁ可能でした。
 プラスチックの模擬弾はそうはいかない。見えないし、ダメージが大きい。直撃を受けて重傷を負うものが続出しました。東山さんは野戦病院という医療現場にいてノンヘルでした。彼の頭蓋を機動隊は至近から狙って撃ち砕いたのでした。

 空港反対派はこうしてまたむごい犠牲を引き受けました。
 そしてまた、ひきかえに5・8闘争は、現地の闘いの「スタンダード」を手に入れたといえます。その後に向かう意識や闘いの方法を決定付けたのです。政府の側が暴力的に、あるいは詐欺的にことを行おうすることに、その企図を頓挫させる可能性を、現実的に垣間見せてしまったのですから。

 鍵は大衆の結集した力、実力による反撃にありました。その闘いを支える共感のうねりを現地・三里塚へ向かって作り出し、陣形を作り上げることでした。
 陰惨なテロではなく、爆弾のような支持なき先鋭でもなく、一人ひとりが自分の責任で闘いに参加し、自分の意志と身体をそこに賭ける、過激にして愛嬌ある本質的にラジカルな闘いの方法でした。

 3・26闘争を紹介する読み物、紹介文はたくさんあります。第4インター、プロ青同、戦旗派の三派によるゲリラで管制塔占拠という内容です。ある部分は正しい。けれど、はっきり言えばこの内容だけで捉えるのは誤りだと思います。
 ブログの一番最初に掲げたとおり、この勝利は「全人民がともに手を取り合って喜ぶ勝利」であり、少しだけ誇りを込めて言わせてもらうなら、それにふさわしい内容をもった過程を通して準備され、実現されたものでした。
 管制塔に登った連中も、空港内に突入した者たちも、また空港周辺で闘った人たちも、実は、その内実の先端に自分の身を置こうとした、ただそれだけのことでした。

 ♪隣の小屋の戦友は、
  えらい元気な奴でした。
  きのうも敵の放水車、
  進みのっとりまたがって
  コックローチ退治と高笑い
   タカ・タッタッタ〜

 ♪あいつがやれば、ぼくもやる
  みてろ、こんどの決戦に
  タワーをひとつぶんどって
  テレビニュースで見せるから
  まっててください、おっ母さん
   タカ・タッタッタ〜

(注・むろん替え歌の「おっ母さん」とは、第一に反対同盟のおっ母さん達のことであります)
 
remol
1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議 | comments(0) | trackbacks(0)

★真の「過激」のつくられ方

管制塔占拠闘争は、岩山大鉄塔の防衛に向けての準備から始まる一年半の攻防の集大成として、ありました。★3・26菱田小跡地の「異様な雰囲気、異様な熱気」で出てきた「全員が逮捕される覚悟。(略)、『もう今日は全員が捕まるぞ』っていう気分を持っている何千人の集団っていうのは、それはものすごく異様で、そして巨大な力を感じるものがあるんだよ。そういうものは、それまでの1年間をかけてつくられてきたわけだけどね」は、それを端的に表したものです。

 3・26当日の天を衝く闘争意欲の「気分」は、一つ一つの攻防を経て圧縮され、この日に、もう誰にも止められない爆発的なエネルギーの迸りとしてあったのです。
 その過程をおおざっぱに年表で見てみます。

・1976年 2月、産土参道土どめ破壊阻止闘争。
     5月、三里塚廃港要求宣言の会(前田俊彦さん代表)
     10月、「(岩山)鉄塔決戦勝利」全国総決起集会。
     12月、福田内閣発足。
・1977年 1月、福田首相、年頭会見で「年内開港を内政の最重要課題とする」と発言。
       岩山鉄塔破壊道路工事が再開、現地攻防続く。
     3月、千葉で「ジェット燃料貨車輸送反対」集会、
     4月17日、現地集会に最大の2万3千人結集
     5月6日、千葉地裁が鉄塔撤去の仮処分、即日、岩山鉄塔破壊
     5月8日、千代田農協前広場で抗議集会。
         「5・8」戦闘。機動隊のガス銃により東山薫さんが虐殺される。
     5月15日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ」中央集会。
     5月29日、「東山君虐殺糾弾」現地大集会。
     7月〜8月、ジャンボ飛行阻止闘争。三里塚と全国を結ぶ大行進、
     10月、 現地総決起集会。
     12月、横堀要塞の建設はじまる。
・1978年 2月6日、警察機動隊が横堀要塞への攻撃を開始、鉄塔攻防戦。
     3月1日、現地集会で反対同盟「3月開港阻止決戦突入」を宣言。
     3月26日、「包囲・突入・占拠」闘争。横堀要塞で第二次戦闘、
         開港延期を閣議決定(28日)。

 年表の冒頭を少し考えて見ます。
 空港建設の具体的な動きは常に「道路作り」からです。測量があり、資材輸送や(彼らの側からする)妨害物撤去のための道路が作られていきます。言葉を変えて言えば、周辺の地形が変わっていくことが、強行建設の始まりなのです。

 産土様は、古い歴史を持つ岩山部落(A滑走路=4000メートル滑走路の南側延長上の台地)の人々を見守ってきた神様です。政府は、ずっとこのようにして村を破壊してきました。このとき、71年の代執行以来、表立っては見えていなかった強権的な建設の動きが露になったのです。しかも、これは福田内閣が発足する前、でした。

 もう一つ、これも成田空港建設らしい話ですが、福田は当初、「年内開港」とぶち上げていました。無理強いにやればやるほど齟齬は重なり、まもなく「年度内開港」と言うようになります。政府は現地の様子も、農民の気持ち、抵抗の意欲、全国の支援者の力をまるでわかっていなかったということになります。

 この産土参道破壊阻止闘争は、しかし、その後から思えば牧歌的な雰囲気でした。もちろん、槍衾を組んで機動隊の盾をボコボコ突いたり、泥まみれになって泥団子合戦ごっこ的攻防戦をやっていたのです。かわいらしい前哨戦でした。そこから開港阻止実力闘争は始まっていったといえます。

 さて、後に管制塔占拠につながる闘いは、主として「三里塚闘争に連帯する会」という大衆運動団体に参加していたものたちによって担われたものでした。第四インター(第四インターナショナル日本支部)やプロ青同(プロレタリア青年同盟)は、それに当初から参加していた政治党派でした。
 この大衆団体は、74年の参議院選挙で、反対同盟の戸村一作委員長を押し立てて選挙運動した者たちのつながりで出来上がっていたものです。
 全国的な反対同盟支援の体制は、このような大衆的な運動の積み重ねでつくられていたのです。

 この財産の上に、一年余りの実力攻防戦で反対派は鍛えられていきました。
 もっとも重要なことは、三里塚闘争の特性です。何より、農民の過激な闘いに「学生さん」は学んだのです。
 そのリアリティは、実は年表からは汲み取れません。年表の行間に沈んでいる「進化のリアリティ」を以下から想像してみてください。

*肉体、精神、感情をつくる時代*(『1978・3・26 NARITA』)
早野●排水溝を使うっていうのは、『地下水道』っていう映画がヒントになってるんだけど、成田の排水溝っていうのは、非常に無防備なかたちで空港の外にたくさん飛び出していたわけよ。それが1978年の3・26を前にして、こちらがちょこちょことゲリラやるもんだから、どんどん塞がれちゃうんだけど。あそこには、俺らはけっこう何年も前から潜って調査をしていて、そのついでにピョロッと空港の敷地内に飛び出して、パパーンと火炎瓶投げて戻ってきたりしてた。そういうのもふくめて、いろんなちっちゃいゲリラをいっぱいやっていたわけよ。

 前田●そうそう。Tと失敗して帰ってきたこともあったしなぁ。
 早野●それで、怒られて、もう1回、行ったことがあったじゃん。「むこうの警備が固くて、できませんでした」って帰ってきたら、「バカヤロー、なにしに行ったんだ、お前ら!」って言われて、むこうがもっと警備を固めてるとこに行って、やってきたんだよな。1977年の5・7、5・8の鉄塔を倒されたときだよな。
 前田●あれは、演習としては最高でした。

 早野●あのへんから、俺ら、気合が入ってくるんだよ。もちろん、エンタープライズとか相模原とか、いろんな大衆闘争をやってるんだけど、それだって、せいぜいが竹竿で突っこむとかデモで機動隊の壁に正面からぶつかるとか。当時は、学生運動が過激だ過激だっていわれてても、鉄パイプまではいかないで、角材と石、これで機動隊に正面からあたっていって、捕まる。この捕まるというところが最も過激な闘争だった。それが、本当に実害を与えてくる、そして、自分たちがやったという勝利宣言をするようになるのは、前田たちの、あの「出直し」が大きな転機になってる。

 早野●学生運動としてはそれまでに、三池とか、60年安保とかいろいろあったけど、例えば60年安保にしても、樺美智子さんが亡くなったから、あたかも激しい闘争のように思われてるけど、やったことは本当に大衆の腕組みデモなんだよね。国会を包囲したけど、突入して占拠する、とかではない。
 日本の戦後における労働運動も、三池とか三里塚をのぞくと、本当の意味で実力大衆闘争ではない。自分の命をかけ、体を張って、死傷者を出し、というのは、むしろ住民闘争のほうがはるかにリアルで過激な闘争をしてきたわけ。

 新左翼はいかにも、新左翼運動が戦後の日本の政治・大衆運動を牽引してきたかのごとく総括しているけど、それは大嘘で、やっぱり生活をかけた生活防衛闘争のなかにこそ本当の実力闘争があったわけ。学生運動が過激だっていわれているのは、要するに爆弾闘争と内ゲバ、ただこの点においてのみ過激だっていわれてるだけで、本当の意味で大衆的実力闘争というものを新左翼も経験していくのは、やっぱり成田からなんだよね。

 68年からの成田闘争への参加、そして、第一次(71年2月22日)、第二次代執行(同年9月16日)、これらのなかで、新左翼運動が「本当の実力闘争とはなにか」を、農民から学んでいくんだよ。
 八街からはじまる千葉県に空港を作る計画が1963年から64年にかけて出てくるんだけど、そのころから反対運動を社会党と共産党は組織していくんだね。三里塚は、学生の甘っちょろい運動とちがって、明日の自分の生活を守るために体を張った闘争を色濃く体現していた。

 新左翼はそこに行って、はじめて大衆的実力闘争を経験し、反対同盟との接触によってはじめてリアルなものとして実感するようになる。新左翼運動は、第一次代執行、第二次代執行にいたる過程で、自分たちも穴ぐらに潜ったり、鉄塔にたてこもったり、火焔瓶をぶん投げて機動隊をやっつける、というようなところまで、反対同盟によって導かれるんだよ。
 そういう経験をした新左翼も、その後の集会やデモでは、東京で繰り返してるような、旗立てて、機動隊に竹竿突っついて、勝った、負けたっていう、カンパニア的な、自己陶酔的な、単なる自己証明のための闘争に戻っていってしまう。本当の意味で大衆的実力闘争を自分たちのものとして確立できなかったんだね。

 前田たちがあの日(77年5月)、それまでの一般的なゲリラ活動と同じく、火焔瓶を投げに行ってお茶濁して帰ってきたのを、「バカヤロー、もう1回行ってこい」って和多田さんに言われて本当にやりきってきたというのは、局地戦ではあるけれども、歴史的には非常に意味のある、第四インター的には精神的な闘争本能をつくる、大きな出来事だったんだよ。77年5月、5、6、7日あたりね。

 前田●そのころ、僕はなにをしてたかっていうと、部隊をつくって実戦訓練してた。たとえば、アウターマーカー(無線施設)っていう飛行機が滑走路に入る誘導施設があって、「そこをやってこい!」って言われたりする。ある日、突然、招集がくるんだよね。それで、某所に集まって、現地に行くと、すでにいろいろ用意されている。「案内するから行ってこい」っていわれるわけよ。まあ、こっちは、いい訓練だったよね。77年あたりは、そういう時期だったね。
 早野●そうなんだよ。いろんな戦闘に対して、肉体のみならず、感情、精神をつくる時代だったんだよね。一方には、単なる自己表現のための、存在証明のためのゲリラがあって……。
 前田●そう、僕らはちがうな、そんなんじゃないな。(『1978・3・26 NARITA』より)

remol


    
1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議 | comments(0) | trackbacks(0)

★真の「過激」のつくられ方 2

 三里塚闘争は、支援へ向かった初期の学生や労働者が、実力による生活防衛闘争を学ぶ場でした。そのなかで、開港阻止が日程に上り、約一年の実力攻防で、反対派がさらに鍛えられてきたと前回は書きました。
 岩山大鉄塔が闇討ちで破壊されて、その反撃の機こそが、後の開港阻止部隊にとってエポック・メイキングなできごとだったとも。

 既にこのときまでに、三里塚闘争は12年の歴史を持っていました。
 それがどのようなものだったのか。反対同盟にどのように刻み込まれていたのか、ひとつ例を挙げておきたいと思います。

 加瀬勉さんという人がいます。羽田に代わる国際空港があちこちに候補地を捜し、成田の隣の富里に決定しかかったときから、空港反対運動に関わってきた人です。社会党員で、日本農民運動のオルガナイザーでした。富里、三里塚と、誰よりも農民の運動を長く見てきた人でした。

 77年5月8日、部隊は、戦闘が終わって横堀の労農合宿所(だったと思うのだが)に集合していました。5・8戦闘の後で、戦った部隊が持つ鉄パイプは、ポケモンのピカチューのしっぽのようにひん曲がっていました。脳死状態に陥っている支援者の名が告げられると、「かおる〜」と、悲鳴のような長く尾をひく声があがりました。パイプが揺れ、「報復だ!」という声も上がっていました。

 総括集会は「権力の虐殺行為を許さず、東山薫の意志をついで闘う」という発言が相次いでいました。いったい、こんな犠牲を前にほかに何を語ればいいのか。
しかし、それらの発言は、言葉の軽さばかりが浮き上がって、中空に消えてしまっていたのです。

 そこに、初めて加瀬さんが壇上に立つ姿を見ました。加瀬さんが集会で発言するのを、それまでもそれからも聞いたことがありません。
 加瀬さんは傾いていく陽の中で、髪を振り乱しながら部隊に向かって獅子吼しました。

 彼は、地に付く鬼人のように闘い死んでいった大木よねのことを、くびれて下っていた青年行動隊の三ノ宮文男の遺体を自ら木から降ろした日のことを、全身全霊をかけて語った。
「三里塚の大地は血を吸い、闘争はその血で進んできたのだ……」と。

 新左翼と呼ばれる運動の中で、聞いたことのないアジテーションでした。内容と質と迫力において、まるで違うものでした。
 加瀬さんは特別なことを言った訳ではありません。「これが三里塚闘争」。彼はそう言ったのです。
 日本の農民運動、住民運動が持ちつづけ、格好付けの日本の「学生さん」「新左翼」になかった、真の意味の過激(土着的なラジカルリズム)と、その粘り強さ、闘うものの腹の据え方を語ったのでした。

 5・8闘争は、単にある部隊が実力闘争をやりきったというところに意味があったのではありません。東山薫というかけがえのない命を犠牲にして、涙も怒りもいっしょくたになり、それでも進む三里塚闘争の特質が、支援者たちの胸の内に深く刻み込まれたことが重要だったのです。

 闘争に命をかけることを簡単に受け取るふりをするな、利いた風な口をきくんじゃない。このようにして闘争は続けられてきたし、続けられていくのだ、と。
 私個人は、そのようにあの演説を聞いたのでした。

remol

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