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成田空港・管制塔占拠をめぐる物語
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はじまりはじまり

 1978年3月26日、大きな闘いがありました。三里塚空港(成田空港))開港阻止決戦です。全国から集まった労働者や学生が空港に突入し、管制塔を破壊。開港は吹っ飛びました。
あの日の闘いは、権力の横暴に負けない! と思う人たち全てが喜ぶ勝利でした。

 あれから30年。

 あの闘いを担ったものたちの証言集、『1978・3・26 NARITA』が出版されました。
 このブログは、その証言集に沿って、三里塚闘争について考えてみようとするものです。

remol
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★1978年3月「澄み切った青い空が広がっていた」

  30年前、小さな政治党派の週刊機関紙に、こんな書き出しで始まる「声明」が載りました。
 
 日本人民のみなさん。

 いま北総の緑の大地には、春の暖かな微風が吹きわたり、澄み切った青い空が広がっています。四月二日から飛ぶはずだったジェット機は、影も見せていません。(略)
 これほど、すばらしいことがあるでしょうか。日本人民のたたかいの歴史のなかで、これほど見事な勝利があったでしょうか。
 皆さん、ともに肩を抱き、腕を取り合って、この勝利を喜び合いたいと思います。
 
 当時の福田政権の「成田空港・年度内開港」は、管制塔占拠という劇的な闘いで打ち砕かれました。
 あれから30年。ただ一本の暫定滑走路で開港した成田空港は、相変わらず地元農家の怨嗟と、利用者の不満の声に取り巻かれたまま、歴史を刻んでいます。
 一方、政府は、空港建設のあり方について自らに非があったことを、たとえ口先だけであろうと公式に認めました。
 
 暴力的に反人民的な巨大事業を行う権力に、全国の労働者や学生が力を寄せ合って、実力で跳ね返すのは「理の当然」のことでした。
 考えても見てください。その闘いの勝利なしに、政府がそれまで見向きもしなかった「農民との話し合い」や「自らの非」について、口にする事態がおこったでしょうか。
 30年前の3月26日に空港内に突入し、管制塔を占拠した反対派は、一気に成田空港を廃港にまで持ち込むには、確かに力が足りませんでした。しかし、開港阻止闘争の勝利の記憶は、政府の側が無理無体で暴力的な「解決」に踏み切ろうとする試みを、押しとどめてきたといえます。
 現地で暮らし続ける農家があり、それに心を寄せる人々が存在する限り、反対派農家を意向を無視して強権的に空港を造ろうとすれば「また、管制塔に赤旗が翻るぞ」という権力者の怯えは去るわけがないのです。
 
 このブログは、1978年3月26日に管制塔を占拠した者や、同じく当日のたたかいに参加した者が、そのときの経験と意味を考えてみるためのものです。
 30周年記念出版の証言集『1978・3・26 NARITA』(結書房刊)の内容を追いながら、進めるつもりです。「春の暖かな微風が吹きわたり、澄み切った青い空」を見てしまったものたちとともに、よかったところも足りなかったところも、読者のみなさんが教訓を汲み取ってくだされば、と思います。

remol
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「横堀」という地

 要塞が建設された横堀部落は、77年の(岩山)鉄塔決戦のあとから、闘いの焦点として浮かび上がってきた地区でした。むしろ、反対派が意識的にそこを焦点化していったといってもいいと思います。

 成田空港建設反対運動は三里塚闘争と呼ばれてきました。「三里塚」とはもちろん地名です。成田市三里塚、です。成田空港建設計画は、この地にあった「御料牧場」を召し上げてか下賜されてか、なかなか微妙なところ(笑)ではありますが、天皇家の糧食をまかなう広大な土地を中心にして、新しい国際空港をつくろうとしたということです。

 それで空港建設に反対する運動が、あるいはそこに現実的にかかわっている地域を指すイメージとして「三里塚(闘争)」と呼ばれてきたのです。
「三里塚へ行く」といった場合に、実際には、それぞれの支援者が向かう小屋がある地区を指し、成田市三里塚ではなく、山武郡芝山町朝倉や、辺田や、坂志岡etcというのも、ごくありふれたことでした。
 各部落にはそれぞれの固有の成り立ちがあり、ものごとの考え方、運動の進め方、匂いや雰囲気の違いまで、少し注意していると見えてきます。

 しかも、反対同盟はその違いを互いに認め尊重するという組織であったのです。私は、「左翼の組織より、よっぽど民主的だな」と思うことが何度もありました。

 反対運動が立ち上がってすぐ、住民たちの組織は、ごくごくおおざっぱに言えば、多くを空港敷地に取り上げられる成田市側と、主として騒音地区になる芝山町側の組織が合同して、三里塚芝山連合空港反対同盟になります。

 横堀は二期工事区を抱える芝山町の部落です。ここからやはり二期工事区内にある成田市に属する木の根や、東峰、天神峰はほとんど隣接する、開拓者たちがつくりあげていった部落です。横堀は行政的な(?)名でいえば、「山武郡芝山町香山新田」。

 これもごくごくおおざっぱに言います。田んぼが古村、畑が開拓。
 横堀から南へ坂を下って降りていった先が辺田です。周りを田んぼに囲まれた古村です。横堀の古老が、辺田のことだったと思いますが「本村」と呼ぶのを聞いて、何かに打たれたような気持ちになったことがありました。
 いい、悪いではなく、古くからの村と新しい部落の関係が、どきりとする感じで迫ってきたのでした。

「開拓で入って食うや食わず苦労の末に、やっと人並みの暮らしができるようになったとたんに空港がやってきた」という人々と共に、八百年、千年の歴史をたどれる古い村(村落共同体)が、独特に結合して闘い続けたのが三里塚闘争です。

 辺田の三ノ宮文男さんが代執行のあと、次々に青年行動隊員に弾圧が及んでいくさなかに自殺したときのこと。まだ行方がわからないまま、家族なのか友人なのかが、横堀のOさんを訪ねてきた話もまた、その人に聞いたことがありました。
「息子が仲がよかっただから、来てないかって捜しに来たんだっぺよ」

 その仲のよかった友人は、東峰十字路事件(三人の警察官が反対派との衝突で死んだとされる事件)で、うそっぱちの調書を取られた人でした。この調書は、のちの裁判で最大の争点のひとつになり、Oさんがその調書を否定することで、裁判の展開は、事実上の勝利へ向かって、また大きく流れが変わっていきました。
「三里塚闘争に連帯する会」などが、現地の結集・宿泊に利用した施設「労農合宿所」は、このOさんが横堀を去ったその宅地跡に開設されたものでした。

 横堀は、横堀要塞を建設することで、そんな人の命や三里塚闘争の歴史を結び合わせる部落だったのです。
 ここで公団・機動隊と要塞を巡ってせめぎあうことで、その主力を担った「三里塚闘争に連帯する会」や、第四インター、プロ青、戦旗のブロックが固められ、「横堀赤ヘル三派」と呼ばれる、管制塔占拠闘争の部隊が作られていったのでした。

remol

 
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